スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | - |
アクロイドを殺したのはだれか / ピエール・バイヤール
アクロイドを殺したのはだれか
ピエール バイヤール
筑摩書房 2001-09
(単行本)
★★★★

[大浦康介 訳] 著者は文学を精神分析に応用する“応用文学”の提唱者。 「アクロイド殺し」は、手法の独創性によって推理文学史上に屹立する名作ですが、「語り手の背後に殺人犯を隠す」のはアリか?ナシか?の物議でも有名です。 本書はその賛否に加担するようなミーハー感覚の読み物ではなかったです。
推理小説が自ら構築する絶対的な真実を自ら侵犯してしまう、その逆説性に着目し、意識の錯覚と自己認識の二重性の上に築かれた推理小説モデルとしての「アクロイド殺し」のテクストを、精神分析理論とのアナロジーで語り、そこに新たな照明を当てています。
端的に言えは、ポアロの推理を“妄想”と断じ、両義的な言説と省略による嘘に注意を向けながら小説が提供しているデータに違反せずに真犯人を追及することで、「アクロイド殺し」をもう一度捉え直し、書かれ得たかもしれない別の物語を探ろうとする試みです。 作品が出す解答を無批判に受け入れることから離れ、自律的読みの可能性を押し広げる訓練の場にもなっていると言えます。
著者は、作者と登場人物と読者の意識や無意識が錯綜する、言わば解釈のグレーゾーン領域のような“中間的世界”を想定します。 捜査の手をすり抜けた真犯人はそこへ逃げ込み、息を潜めているのではないかと。 この“中間的世界”をめぐるディスコース分析のために、オープン・エンディング性とは対極にある、謎解き主体のいわゆる本格ミステリというジャンルを持ち出して複数的読解の道を切り開こうとするのには、やはり何かしら挑発的ないし批判的、或いは遊戯的意図が窺えそうです。
読者の主観的介入や独創的読解を妨げる推理小説の一義性を批判した上で、それにも関わらず、真相を隠蔽するテクニックを複雑に絡み合わせたロジックや、解釈の目論見に合致するよう取り計らわれる情報の恣意的な取捨選択により、別の物語として再構成され得る潜在的な真相という副産物を無限に生み出し、意味決定が不可能な状態さえ招いてしまう自己矛盾を抱える羽目になっていると突きつけるのです。
だから、推理小説の意外性や独創性へのアンチテーゼとして、真相はこれ見よがしに、“地味で無難な推理”から導き出されるものとばかり。 むしろ仮説そのものは副次的であって、推理小説がいかに多義的な読みを可能にする脆弱性を孕んでいるかを見せつけたいのだろう・・と、終盤まで内心たかを括っていて、更に白状すると、真っ向から正攻法で論じる大真面目さが、地上の論理で本格ミステリに挑むドン・キホーテ?みたいに見えて、今どきこんな・・とバツの悪い気分で読んでいたのです。
それが段々、いや何度も白状するけど殆ど終盤になって、著者はドン・キホーテではなくセルバンテス(ドン・キホーテを演じているセルバンテスと言うべきか)なのだということがわかってくる。
(以下、ネタバレご注意) 実は、本書は丸ごと「アクロイド殺し」をメタ化したミステリの構造になっていたのです。 つまりその、ミスリードにまんまと引っかかっていたわけです。 しかも独自に導き出した“真相”には説得力があり、ここまで踏み込むのか!というくらい“パラノイア性妄想”的なまでにエキサイティング な解釈(但しここでも本家同様、不利な点は巧妙に隠されていそうです)だし、その解釈によってポアロを攻撃し追い詰める著者の姿勢は、著者が弁じるポアロ像と二重写しにもなっています。
何より面白いのは、この本が導く真相もまた、一主体に過ぎない著者によって生み出されたのであって、著者の主張が依拠した公理の一つの例証となっている点。 つまり著者自身が信用ならない語り手だったのです。 しかしまぁ、しかつめらしいハイソな言説のあれもこれもが伏線だったと思えばニヤニヤが止まりません。
で、これ結局、アンチなのかオマージュなのか。 どこまでが評論なのか。 もう全編これ評論という体裁に見せかけた小説なのか。 一人称の“われわれ”が非常に気になるのです。 著者なのか登場人物なのか。 そのどちらでもあり得ると言いたいのか・・
| comments(0) | - |
水晶萬年筆 / 吉田篤弘
水晶萬年筆
吉田 篤弘
中央公論新社 2010-07
(文庫)
★★★

2005年に刊行された「十字路のあるところ」に加筆修正を施して文庫化した短篇集。 ページを開けば魂ごとここから連れ去ってくれる感応作用を持ちながら、ページを閉じた後の記憶や感情を束縛しない、そういうタイプの本だなぁーと感じました。 あっという間に忘れてしまいそうなのだけど、忘れた頃にまた読み返したい、掌中の珠のように大事にしたい、そんな気持ちにさせられる本でもありました。
東京の路地を起点とした物語は、いずれも築地、白山、根津、千住・・など、実在の町から拾い集めた風景がイマジネーションの源泉になっているらしい。 親本のタイトル通り、どの短篇にも印象的なシチュエーションで十字路が登場し、各物語を緩やかに同調させるトポスの役割を果たしています。 様々な不条理と脅威に満ち、様々な魅惑の扉を隠し持つ町や街を幻像的に揺らめかせ、自在の境地に遊んでいるかのよう。
乗りすてられた自転車、紫陽花に隠れた真鍮の蛇口、色褪せた味自慢の暖簾、燻んだカフェー、銭湯、古アパート・・ 迷路にも似た陽の当たらぬ細い路地に踏み入ると、そこには昭和の残響が聞き取れる世にも不思議な空間が開けます。 ちょっとした思考から奇妙に発展した、日常という座標系の外にある秘密の巣穴のような場所に誘われていく感じがしました。
甘い水の町に物語を探しに来た物書き、西陽が描く壁画の町で影を持て余す絵描き、繁茂する道草に迷い込んで坂の上の洋食堂に辿り着けない新語研究家・・ 積極的な生の営みが停滞した緩衝地帯に小さな契機をもたらすのが十字路。 逡巡をまとった主人公たちの微かな鼓動が、物憂い静けさに浸った町々の中に溶けて、意識や匂いや色や音が照応し合う共感覚的な空気を濃厚に漂わせています。
言葉の増殖に絡め取られる「ティファニーまで」や、世界が言葉に支配され変貌する「アシャとピストル」からは、言葉という概念に向けられた関心の強さが読み取れるし、街の裏側に息づく森へファンファーレを奏でる「黒砂糖」や、飽和し倦んだ街のメランコリーが揺蕩う「ルパンの片眼鏡」では、街や都市そのものに対する感慨が浮き彫りにされています。 適度なユーモアを持って語られつつも、何かこう、非常にコンセプチュアルな印象を刻むんですよね。 洒脱なのです。
一番のお気に入りは「黒砂糖」。 伊吹先生のシルエットが宮沢賢治と重なって独自の妄想を進化させてしまいました。 住宅街の片隅に人知れず萌す植物を見つけたら、ははん、彼奴らの仕業だなと。 そしてアスファルトの下の森のことを思い出すのだろうな。
親本には、舞台となった場所を辿るモノクロ写真が添付されていると知って、衝動を抑えられず、図書館で急きょ借りて参りました。 親本には、物語から醒めて、ふと夢の跡に落とすため息のような観想の場が各短篇の最後に設けられていて、歳月の中に微睡むような都市の片隅のモノクロ写真が、そこに一緒に配置されているのでした。 おぼろな記憶の輪郭が溶けて流れ、写真はいつしか物語の魔法の中に永遠に閉じ込められてしまったみたいに、しんと佇んでいました。
| comments(0) | - |
妻が椎茸だったころ / 中島京子
妻が椎茸だったころ
中島 京子
講談社 2013-11
(単行本)
★★★★

泉鏡花賞を受賞した上々質な短篇集ですが、2013年度の日本タイトルだけ大賞(これ、“タイトルだけ”に贈られる賞であって、内容が伴わないという意味ではありませんので念のため)に輝いた作品(いや、タイトル)と紹介しても失礼には当たらないでしょうね? 何喰わぬ顔で言葉をパクッと捕まえる感覚を独自に進化させてる作家さんだよなぁ。 それとなく言葉遊びの要素を盛り込んでるところも好き。
生存の根源的な揺らぎと、常人の理解及ばぬ奇妙な境地を垣間見せてくれるフェティッシュな現代の奇譚5篇は、どれも究極的には男女間の倒錯した情愛を扱っていたように思います。 素っ気なくサラッと、なのに深く。 とっつき易く読みやすいのだけど侮れず。 栗田有起さんの雰囲気に近しいものがあるような・・ ただ、隠微を穿つ直観というのか、その生理的な光沢と芳香がとても濃いのが印象的です。 特に“食す”という行為が持つ、淫らで野蛮でグロテスクな本質を、飄々としてなごなごとした恬淡たる筆致から暴き出してしまう感性にゾクリとさせられる。 そして“食われる”は、“囚われる”や“魅入られる”と同義で語られていたように思います。
表題作「妻が椎茸だったころ」は、もしやリドルストーリー? ほろ苦くも温もりある滋味の中に、ちょっと滑稽な薄ら怖さがぞろっと混ざるところが艶かしくていい。 妻亡き後、二人の親密な時間を生き直しているかのような定年亭主・・いや待てよ、と、そこで思うのです。 料理家女史のセリフがふと引っかかって。 寄り添うもう一つの椎茸ってどっちなんだ? 表紙の椎茸3個がなんとも意味深な気がするのは考えすぎなのか・・ 密かに感動作と見せかけた二重底ものだったら傑作だよなと思うブラックな自分がいて後ろめたい。
表題作の深読みを抜きにしたら「ラフレシアナ」が一番シュールだったかな。 最後の一行がよい。 自らを小さな温室に幽閉するまでの感情の行程は、奇怪で馬鹿馬鹿しいほど得体の知れない底無しの昏さを秘めていて美味。
おぼつかない言語変換時に起こる脳内の越境感覚を見事に捉えたホラー「リズ・イェセンスカのゆるされざる新鮮な出会い」、伝説や物語と滑らかにシンクロしていく「蔵篠猿宿パラサイト」や「ハクビシンを飼う」。 「蔵篠猿宿パラサイト」のクトゥルー系モダンSF風味も捨てがたいですし、おとぎ好きとしては特に最終話「ハクビシンを飼う」が絶佳。 白昼夢のような妖美幻想に、不覚にも琴線がふるふる震えて、透明感ある余韻の甘苦しさをいつまでも転がしておりました。
| comments(0) | - |
コンプリケーション / アイザック・アダムスン
コンプリケーション
アイザック アダムスン
早川書房 2014-03
(新書)


[清水由貴子 訳] 急死した父親の遺品の中に、プラハの見知らぬ女性から父宛に届いた一通の手紙を見つけたリー・ホロウェイ。 5年前の2002年に起こったヴルタヴァ川の大洪水に巻き込まれたとされている弟ポールの死には裏があるとほのめかすその手紙の差出人に会うため、シカゴからプラハへ向かったリーを複雑怪奇な出来事に彩られた悪夢のような時間の流れが待ち受けていて・・
ぶっちゃけるとアメリカ人作家が書いたチェコ趣味モノなのですが、もう半端ないプラハ尽くし♪ おかげでプラハ不足が一気に解消されました。 サイコサスペンスと神秘思想が綾なす混沌感が、プラハの魔都性と響き合うことで醸し出される眩惑的迷宮ミステリ。 プラハの地理、歴史、文化伝承コードを駆使した芳醇な時空間が縦横に広がり、幾層にも積み重なって充ち満ちています。
根幹を成すのは中世イギリス由来のエノク魔術なのですが、ジョン・ディー博士の右腕だった錬金術師で降霊術師で名うてのペテン師のエドワード・ケリーがボヘミアに滞在し、ルドルフ二世に重用され、後に投獄され、祖国イギリスに帰国することなく獄死した実話周辺から想像の翼がはためいており、ルドルフ二世のためにエドワード・ケリーが設計し、秘術を施したとされる時計、“ルドルフ・コンプリケーション”なる神聖ローマ帝国時代の謎の美術品をめぐって起こる殺人事件に絡んで物語が展開します。
旧市街広場、聖ヤコブ教会、ヴァーツラフ広場、チェルトフカ運河、ファウストの家、ストロモフカ公園・・ 弟ボールの情報を求め、2007年のプラハの街を彷徨い、理不尽な歯車に呑まれていくリーの足取りを軸に、1984年の共産党時代にペトシーンの丘の鏡の迷路で起こった殺人事件の容疑者とされる女性に対してチェコ秘密警察が行った尋問の記録、かつてはゲットーだった“ヨゼフォフ”のユダヤ人骨董屋店主がナチスの進軍迫る第二次大戦前夜に亡き妻宛てに綴った手紙形式の独白、そして、ルドルフ二世の秘宝の飾り棚を離れ、世の中に解き放たれた“ルドルフ・コンプリケーション”が、真の魔力を得て時を刻み始めるに至る16世紀末ボヘミアの原風景・・ これら挿話が縺れ合い、いにしえの影に包まれた古都の記憶を乱反射させます。
酒場“ブラック・ラビット”、赤い服の歯のない少女、足をひきずる男・・など、捉えようのない事件を追求していくための誘導灯となって点滅しているこれら暗示的モチーフの、時代を越えた目に見えない連鎖によって、“ルドルフ・コンプリケーション”の機構的概念さながらに、物語自体が時の双方向性を示唆する装置として機能していたように感じます。 のみならず、人間にも順行と同時に逆行する思考があるのだという複眼的ヴィジョンが隠し符になってもいるのですから、それとない徹底ぶりが凄い。
主人公の“ぼく”ことリーの語りが絶対的でないことには、割と序盤で勘づくのだけど、だからといって興が削がれることは全くなく、読み終わっても、どこまでが誰にとっての現実なのか悩ましく思いめぐらすひと時の至福が格別です。
リーの眼を借りたアウトサイダー的視線によって“観光地プラハ”を見渡す描写は実に勘どころが押さえられており、観光レポートな側面としても秀逸。 旧市庁舎の天文時計を製作した名匠ハヌシュの逸話を披露する各国ガイドとそれに聞き入る観光客集団の反応やら言語入り乱れたどこか滑稽な様子やら、旧市街の石畳の小道を行き交う観光客目当てのショーウインドウの、カフカ、カフカ、またカフカ、さらにカフカみたいな商売っ気やら。 クスッとしたりニヤッとしたり。
| comments(0) | - |
書物愛 海外篇 / アンソロジー
書物愛 海外篇
アンソロジー
東京創元社 2014-02
(文庫)
★★

[紀田順一郎 編] 書物愛をテーマにしたアンソロジーの海外篇。 大御所からマイナー作家まで、愛書狂の生態を赤裸々に暴くその種の珍品逸品を一堂に会したラインナップ。
1835年から1956年までに執筆ないし発表された十篇をほぼ年代順に並べ、背景もバルセロナの路地裏、パリのセーヌ河岸、ロンドンの街頭、ウィーンのカフェー、ドイツの田舎、フィレンツェの街角など、時代性や土地柄を多彩に編み込んでいます。
対象物に魅入られた蒐集家につきまとう破滅的、終末的匂いを基調音として響かせながらも、ミステリ、ホラー、上質な物語小説、笑劇風、アイデア・ストーリーなどバラエティーも確保し、読者を飽きさせない構成にも感服させられます。
手写本や揺籃期本(インクナビュラ)の擦り切れた頁、色褪せた羊皮紙の塵や埃や黴のにおい・・ 幾重にも積もった時間の層のしじまから漏れてくる、古の好事家たちの熱く遣る瀬無い溜息を傍受した心地。
第一次大戦とインフレを背景に、古きよき庶民的社会意識の黄昏を描いて名状し難い郷愁をそそるツヴァイクの二篇、「目に見えないコレクション」と「書痴メンデル」が珠玉の輝きを放っていました。 老いて視力を失くした田舎者の版画コレクターと、古本学の無名の大家というべき無比の記憶力を備えたユダヤ人古書仲買人。 外界と隔絶した精神世界の住人である彼らが時代の変化に蹂躙されるその、哀れで、滑稽で、手の施しようもない崇高と、無力にも彼らを守ろうとする絶滅間もない無垢が胸に迫るのです。 “本が作られるのは、自分の生命を越えて人々を結びあわせるためであり、あらゆる生の容赦ない敵である無常と忘却とを防ぐためだ”の一文を抱きしめるように心に仕舞いました。
「薪」は、アナトール・フランスの出世作「シルヴェストル・ボナールの罪」の第一部に当たるのだとか。 日本風に言うと“情けは人の為ならず”なハートウォーミング・ストーリーなのだが、語りの妙味が実に魅力的だった。 書物の魔に囚われた筋金入りの書痴と、書痴に人生を狂わされた老嬢とのバトルが炸裂するグロテスクコメディ「シジスモンの遺産」や、古き怪奇小説のモダン香る「ポインター氏の日記帳」も好み。 フローベール少年期の作品「愛書狂」は、一見、皮肉の効いた巧妙なストーリーに映るのだが(そして実際その通りなのだが)、実話をもとに書かれたのだと知れば、西洋における愛書文化のスケールと濃度に眩暈がしそうになるのだった。

収録作品
愛書狂 / ギュスターヴ・フローベール(生田耕作 訳)
薪 / アナトール・フランス(伊吹武彦 訳)
シジスモンの遺産 / オクターヴ・ユザンヌ(生田耕作 訳)
クリストファスン / ジョージ・ギッシング(吉田甲子太郎 訳)
ポインター氏の日記帳 / M・R・ジェイムズ(紀田順一郎 訳)
羊皮紙の穴 / H・C・ベイリー(永井淳 訳)
目に見えないコレクション / シュテファン・ツヴァイク(辻ひかる 訳)
書痴メンデル / シュテファン・ツヴァイク(関楠生 訳)
ロンバード卿の蔵書 / マイケル・イネス(大久保康雄 訳)
牧師の汚名 / ジェイムズ・グールド・カズンズ(中村保男 訳)
| comments(0) | - |
水蜘蛛 / マルセル・ベアリュ
水蜘蛛
マルセル ベアリュ
白水社 1989-10
(新書)
★★

[田中義廣 訳] 秘密の現実を冒険した20世紀フランスの幻想作家であり、詩人でもあったベアリュが、1940年代から1960年代にかけて発表した十二篇の掌・短篇を収めた作品集。
序文の筆をとったマンディアルグが、初期の自身とベアリュを回想して“不吉な照明に照らされた時代に遅れて(もしくはあまりに早く)やってきたロマン主義者のよう”だったと述べている通り、何かこう、ロマン主義や象徴主義の継承者を想わせるような神秘との精妙なる交歓の、その陶酔と苦悶が迸っていました。
死と引き換えに手に入れる伝達不可能な秘密への関心は、それ自体、自らの生きる場所を再認識するためのエネルギーのようにも感じられます。 死を見据えることで、生物的生命力を裏側から照射し、この世の憂いを超克する契機を探し当てようとする衝動のようにも映るのです。
植物の根のように大地と繋がり連綿と繰り返される生の営みから切り離されているのではなく、死とはむしろその禁断の内部なのではないか・・ 神話的水脈によって潤されたおとぎ話の世界のような一種独特のコスモロジーが全篇を覆っていて、詩的、直観的精神の粋が閉じ込められていました。
「水蜘蛛」は、魂の中で絶え間なく続けられる日常と狂気、生と死の熾烈な相剋、そのトワイライト領域を彷徨する男の物語なのですが、破滅へと堕ちていく・・というより昇りつめていくと喩えるのが相応しかろうなぁ。 “異”と接する時の穢れや畏怖感覚を生理的、官能的に描破した絹織りのように優美にして妖艶な作品。
「百合の血」にも「水蜘蛛」の主題が色濃く感じられます。 狂信者特有の崇高な理念を抱きながら自らの極点へと邁進していく男の物語であり、純粋性の中に輝く妖しさの芳香が噎せるほど濃厚です。 こちらでは、不滅あるいは永遠と有性生殖が体現する無常との表裏性にまで踏み込んだ思索がなされ、生命へのリスペクトが手に取れるかたちで感じられさえするのです。 人類の遠い記憶に触れる「諸世紀の伝説」も同種の匂いを漂わせていて、遠く埋もれた内在への回帰願望と生と死が親和性を持って語られます。
短篇同士互いに観念的連関を示し、共鳴反響し合うような趣きがありますが、ちょっと毛色の違う不条理ナンセンスな二篇が、実は気に入ってたりします。 うち一篇は「球と教授たち」で、理解を超えたものを受け入れんがために採択したインテリたちの行動がコントのオチみたいに描かれていて、これがエスプリ資質を皮肉ったようなエスプリになってるんですよね。 もう一篇、寓意的直喩を甚だ奇妙なオブジェとして現出させた視覚的カリカチュアが冴える「読書熱」は、シュルレアリスム絵画を彷彿させる逸品なのです。
ベアリュの古本店“ル・ポン・トラベルセ”の思い出など、1979年の出会いから十年に渡る訳者ご自身とベアリュ夫妻との交流を振り返りつつ、ベアリュの人生と作品を紹介する訳者解説も価値あり。
| comments(0) | - |