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ダブル/ダブル / アンソロジー
ダブル/ダブル
アンソロジー
白水社 1994-09
(新書)
★★★

[マイケル・リチャードソン 編] 20世紀に書かれた(アンデルセンの「影」だけ例外)西洋の現代小説の中から双子、分身、鏡像、影といった、“一人が二人で二人が一人”の物語を集めたアンソロジー。
錯綜し分裂する自我、混乱する視点、デジャヴのような二重感覚、選択されなかった可能性、アナグラムのような別の世界・・ “ダブル”モチーフとして括られていても、いや、括られているだけに、そのヴィジョンの多様性に目を奪われてしまいました。
地域を問わず神話の時代から人の営みとともにあったテーマですが、“私”というものに対する意識の昂まりを投影した19世紀文学において、“ドッペルゲンガー”モチーフとして妍を競うように花開いたと言います。
アイデンティティの探求というテーマが深化されていく20世紀文学では、ドッペルゲンガーに代わり、或いはその捉え直しとして“影”の概念が頻出するようになると編者は指摘します。 自己を見つめようとすればするほど自己への違和が見えてしまうのは必然かもしれない。 コスミックな枠に収まりきれず無形化していく現実が、形而上学的な色合いを帯びて濃さを増し、それこそ“影”のように揺らめいている・・ ここに採られた作品からもそんなオーラが漂うような。
なにかしら自己の他者性、二重性という主題への関心を窺わせる作家が並んでいるとも言えそうです。 編者によるちょっとしたナビゲートが短篇ごとに添えられていて(また、そこまできちんと訳出してくださっているのが)喜ばしい。
錚々たる面々の隠れた佳篇的セレクトである本アンソロジーを編む上で霊感の源になったという古典の名作で編んだ架空の書物をドッペルゲンガーと称し、装丁、表紙、題辞、目次・・と頭の中で拵えていく編者の空想が楽しい。 因みにその目次は以下の通り。
分身 / E・T・A・ホフマン
オルラ / ギル・ド・モーパッサン
ウィリアム・ウィルソン / エドガー・アラン・ポー
加賀美氏の生活 / ナサニエル・ホーソーン
並外れた双子 / マーク・トウェイン
大法律家の鏡 / G・K・チェスタトン
書記バートルビー / ハーマン・メルヴィル
秘密の共有者 / ジョゼフ・コンラッド
拾い子 / ハインリッヒ・フォン・クライスト
懐かしの街角 / ヘンリー・ジェイムズ
泣く子も黙りそうなマスタービーズ感・・なのかどうかもわからん 笑。 無残にも殆ど読んでいません。 せめて陳列して飾っとこう;;
さて。 本編にもハズレは一篇たりとてないのですが、特にお気に入りをいくつか。 生と死の、光と影の対比を抒情豊かに刻印した「華麗優美な船」が好き過ぎる。 進化のプロセスの分岐点というものに想いを馳せずにいられない、あの郷愁を揺さぶるイマジネーションにやられてしまった。
現実とは見るものの中にしか存在しないのだということを悪魔的に見せられて震撼した「あんたはあたしじゃない」も好み。 ゴーゴリ的手法を用いてゴーゴリの奇異性に迫った「ゴーゴリの妻」は、グロテスクな誇張法による変種の評伝かと見紛うばかりの押し出しが圧巻。
自分から逃れる方法を“抹殺”ではなく“複製”に求めた男を描く「ダミー」は、とぼけた味の中に薄ら寒いものがあって妙に惹かれる。
双子の母親は娘なのか母親なのか? 青い目の男(=私)はマラカイの父親でもあったのか? 魔術的な眩暈を誘う「双子」も凄くよかった。
人の魂と不気味に結びつく物語が多い中で、人生に安心を見出す契機として“有用なやり方”で分身モチーフを調理している「二重生活」は貴重な一篇。
そして縁あって再読となった「パウリーナの思い出に」はエレガントで悍ましくて素晴らしい。 精緻な美しさに改めて魅せられた。

収録作品
かれとかれ / ジョージ・D・ペインター(共同訳)
影 / ハンス・クリスチャン・アンデルセン(菅原克也 訳)
分身 / ルース・レンデル(菅原克也 訳)
ゴーゴリの妻 / トンマーゾ・ランドルフィ(柴田元幸 訳)
陳情書 / ジョン・バース(柴田元幸 訳)
あんたはあたしじゃない / ポール・ボウルズ(柴田元幸 訳)
被告側の言い分 / グレアム・グリーン(菅原克也 訳)
ダミー / スーザン・ソンタグ(柴田元幸 訳)
華麗優美な船 / ブライアン・W・オールディス(菅原克也 訳)
二重生活 / アルベルト・モラヴィア(菅原克也 訳)
双子 / エリック・マコーマック(柴田元幸 訳)
あっちの方では / フリオ・コルタサル(柴田元幸 訳)
二人で一人 / アルジャーノン・ブラックウッド(柴田元幸 訳)
パウリーナの思い出に / アドルフォ・ビオイ=カサーレス(菅原克也 訳)
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二流小説家 / デイヴィッド・ゴードン
二流小説家
デイヴィッド ゴードン
早川書房 2013-01
(文庫)


[青木千鶴 訳] ジャンル小説の読者から煙たがられそうな短篇をアンソロジーで先に読んでいたので、もっとわけわからんのを書く作家さんかと思ってたら、いけてないヒーロー系ハードボイルド路線に連なる、律儀なまでにちゃんとした超ド級の通俗小説、という印象でびっくりだった。
定型的4人のマドンナに囲まれたハーレム状態の主人公とか・・もうね^^; でもこれ、通俗仕様で戯画化してる節もあるんだろうね。 素なのかパロディなのか悩ましい辺りの曖昧さも魂胆の内っぽい。
ジャンルに対して極めて意識的という意味で、通俗小説(ジャンル小説)に捧げたオマージュ小説のような香りもします。 散りばめられる作中作の紙吹雪を浴びながらケレンたっぷりに演じられる地のストーリー・・ 全篇を貫くイミテーション感が半端ない。
ハリー・ブロックはコアなB級ノヴェル愛好家ご用達のしがない小説家。 本名や経歴を偽った様々な変名や変装を駆使してSF、ヴァンパイア小説、都会小説を書き分けて生計を立てています。 かつてポルノ雑誌の変態ライター“アバズレ調教師”として腕を磨いた経験を活かし、どのジャンルもSM倒錯愛風の濡れ場でちょいちょい彩色するのが持ち味の模様。 最近は高校生の家庭教師・・とは名ばかりの、その実、期末レポートを代作するアルバイトにまで手を出して食い繋ぐありさま。
そんなハリーのもとに、獄中の連続殺人鬼から告白本の執筆を依頼する手紙が舞い込みます。 果たしてメジャー作家にのし上がるためのチャンス到来となるのか。
ハリー自身が綴る手記としてその顛末が物語られていきますが、手記の体裁をとった起死回生の小説かもしれないという含みも醸し出されていて、実話なのか創作なのか幻惑的なところに面白みがあります。
どちらにしてもハリーが初めて本名で執筆するテキストには違いない・・のかどうかも疑問の余白を残します。 そしてヴェールの奥の奥では本書をデビュー作とする著者デイヴィッド・ゴードンの影(亡霊)が踊り、初々しい矜持を見え隠れさせている・・
本筋であるミステリのパートはなんとも普通というほか形容しようがないのだけど、小説家の目線で現実(もちろん小説の中での“現実”という意味です)を観察しているようなメタ感覚の導入や、“二流作家”たるハリーの持論として乱発される自虐ユーモアのきいた文学論(そんな深いもんじゃないし、とっ散らかり気味ではある)の数々、背景として描かれる現代ニューヨークの素顔など、複合的に読みどころモリモリな娯楽性を保持しています。 (素なのかネタなのか)抑制が効かず、饒舌に任せて作家としての若さをみだりに放出している感じです。
余談ですが、日本でもロマンス小説のパラノーマル部門がヴァンパイア色に染まってるっぽいイメージはあるのだけど、アレ系ってみんな翻訳モノなのだよね。 ましてや“アーバン・パラノーマル”なるジャンル(ホラーとロマンス小説の中間くらい?)自体、聞いたことない。 B級小説界におけるヴァンパイア信奉って、聖地(?)のアメリカ(2009年)では、“バーンズ・アンド・ノーブルの何ヤードにもおよぶ棚を埋めつくす勢力”らしい・・ へぇ。
あらゆる雑誌の例に漏れず、インターネットが《ラウンチー》誌を廃刊へ追いやった。かつて、テレビや映画が書物を絶滅へ追いやったのとまったく同じように。さらに時代を溯って、ぼくの思い出せないなんらかのものが詩を絶滅へ追いやったように。いや、詩の場合にかぎっては、みずから命を絶ったと言うべきなのかもしれない。
こういう笑いのセンス好きw 表紙カバー袖には著者(ハリーじゃありません)の近影が。ふふ。 狙ってるのかそうじゃないのか、この辺の企みも憎いもんです。
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カールシュタイン城夜話 / フランティシェク・クプカ
カールシュタイン城夜話
フランティシェク クプカ
風濤社 2013-02
(単行本)
★★

[山口巖 訳] “チェコでもっとも才能ある語り手の一人”と言われる著者が、第二次大戦中に書いた“歴史的雰囲気の三部作”の第三巻に当たる作品。 時は14世紀。 チェコの王統プシェミスル家の血を引く神聖ローマ帝国皇帝カレル四世が、帝都をプラハに定めて都市開発を進めたことから、美しく洗練された都へと大きな発展を遂げた黄金期のプラハ。
宮廷で何者かに毒を盛られ、一命は取り止めたものの、聖霊降臨祭までの一週間を、プラハ郊外の丘に建つ、森と葡萄畑に挟まれたカールシュタイン城で療養することになったカレル四世。 無聊を慰めるのは、ともに鬢の白くなった三人の心許せる側近たち。 愛情と気遣いに満ちた隠れ家での束の間の遁世は、衰弱した皇帝の心身を癒し、英気を蘇らせるひと時に。
集いの側近とカレル四世が代わる代わるに語り手をつとめ、一夜に三話ずつ物語を披露し合うという趣向で編まれていく二十一篇の枠物語。 「千一夜物語」或いは「デカメロン」のチェコ版と形容するに相応しい魅惑の香りが封じ込められています。 男たちの夜語りとなれば話題の中心はやはり女性。 遍く愛をめぐるモチーフの瞬きに、緊張し、身震いし、微笑み、安らぎ、時に敬虔な沈黙に身を浸し、満足のため息とともに夜会の帳は降りてゆく・・
美しい王女や不実な夫人や奔放な町娘、聖人、英雄、騎士、悪魔、天使、亡霊など、御伽噺の儀式的エッセンスと、アビニョン捕囚や黒死病や百年戦争、イタリア諸都市におけるギベリン党とゲルフ党の対立抗争など、歴史を踏まえた精緻な背景が共鳴し、クロスオーバーしています。
地上で人から聖人に変わったヴァーツラフ聖公の(存在したかもしれない)無名の妃の話、フィレンツェの魔術師を侮った若者がプラハの宮廷から幻の王国に飛ばされる話、外国からカレル大学にやってきた学生が酒場の踊り子に暗い情熱を捧げる話、フランチェスコ・ペトラルカがプラハ滞在中に経験した(かもしれない)詩人らしい愛の話、カールシュタイン城の教会の壁画を描いたデドジフの弟子が、その旺盛な食欲によって引き起こす笑い話など。
また、舞台はプラハを離れ、ピサ、ルッカ、ブルゴーニュ、アビニョン、フランドル、ナヴァラ、アンダルシアといったヨーロッパ各地の異国情緒を奏でる愛と冒険風の様相を呈したり、カレル四世が語り手となって史実を包み込むように恋人や亡き王妃たちの思い出を振り返る自叙伝風の味わいを醸し出すなど、縦横に織り上げられた雄渾な物語世界は、“人の魂をめぐって争う天国と地獄”といった中世的テーマ性を色濃く反映しています。
見事に完成された美しい説話である放浪の修道女ベアータの話は(全く同じ話を)なぜか知っていて、どこで触れたんだろう・・と訝りながら読んでいたのだけど、章の末尾に語り手たちのこんな会話が挟まれています。
だがヴィーテク卿は笑って言った。
「誓って言うが、私はこの事件のことをボローニャで聞きました。そしてその修道尼もやはりベアータという名でした」
イェシェク師は言った。「卿よ、私もどこかで聞きました。悪魔も護れなかった夫人の話や、全ての女の愛から逃げだした若者の話を。ところで卿よ、あなたの話に戻れば、それはどうでもよいことです。ベアータはいたし、今もいるのです! たとえプラハかボローニャにいなくても、ノリンベルグかパリにいるのです」
「私はあなたの物語をけなそうとして言ったわけではありませんぞ。あなたが言われたように、それが私たちの町プラハで起こったことが嬉しいのです」
著者あとがきを読んでわかったのですが、この「ベアータ」を含む五篇は、中世から流布する古譚をチェコ風に再話した物語だったのです。
創作による残り十六篇も(著者の色を消し去って)古譚の趣きを見事に踏襲しているのですが、その中に、何度も語り直され語り継がれてきた“本物”の伝承的息吹きを注ぎ込むことで、作品全体に強靭な生命力を宿らせ得たかのよう。 語りの真偽は詮索しないという暗黙の了解のもとでの余興、その、歴史のささやかな秘話的な曖昧感も含めて、この一冊がそのままチェコの伝説の一ページに加えられても不思議じゃないくらいに思え、あぁ、これが語りの魔術というものの正体なのじゃないかと感じ入りました。
疲弊した戦争の時代にあって、心の奥深くにある誇りを静かに確認するような・・ 祖国への愛に貫かれていながら、圧迫感を伴うような偏狭さや気負いが全くないのです。 ドイツの強制収容所に送られたチェコ人の間で密かに回し読みされ、愛されたという妙なる遍歴を持つ作品なのですが、素朴で平明な逞しさに加え、長篇としての(外枠の)ラストで示された真の孤独を知る者だけが勝ち得る優しさと強さ、そこに宿る品位と崇高こそが尊ばれた証しなのではなかったかと思えてくるのでした。
余談ですが、トリックアートっぽいシュールでおぞましやかな表紙カバーが素敵。 作田富幸さんとおっしゃる銅版画家の作品らしい。 ふと、ルドルフ二世の肖像画で有名なアルチンボルドが(プラハ繋がりで)思い浮かんだり。 でも本物のカールシュタイン城って異様感全然なくて、むしろブロックで拵えたみたいに可愛らしく見えてしまった。 あくまで画像検索の話です。 直に触れたことのない愚を承知の暴言なので悪しからず。
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ペドロ・パラモ / フアン・ルルフォ
ペドロ・パラモ
フアン ルルフォ
岩波書店 1992-10
(文庫)
★★★★

[杉山晃・増田義郎 訳] 死んだ母親との約束を守り、顔も知らない父親ペドロ・パラモに会うためコマラの町にやってきたフアン・プレシアド。 かつての繁栄は見る影もなく、荒れ果て、寂れた町は、死者たちの“ささめき”に包まれていた。 瑞々しい詩情と、怜悧な技巧と、乾いた認識と、熱い血潮が玲瓏と響き合う名品。 素晴らしかったです。
現在と過去が円環の中に閉じ込められて永劫ループするかのような、未来へ繋がる何ものも持たず、未来から断絶して完結している物語が宿す冒涜的なまでの虚無と不毛、その研ぎ澄まされように悪魔がかった狂気の域を感じ、この戦慄を創造した著者に気圧される。 のみならず、無残なまでにアクチュアルな光芒を放っていて、その深淵が更に恐ろしい。
メキシコ革命の混乱が続く暴力と破壊と搾取と狂熱の時代に幼年期を過ごしたルルフォの精神風土が小説世界の地盤になっていることは、疑いようがないのだと思われます。
貧困、迷妄、腐敗、俗欲・・ そんな“罪深い”肉体の憐れな残骸でしかない魂は、無慈悲な神に見放され、安らかな眠りも辿り着ける場所もなく。 現世という煉獄を幽霊となってさまよいながら、果てしのない執着の中に吹き溜まり、救いと許しを求め、起伏のない単調さで繰り言めいた想念をざわつかせている。 同時に、死者の追憶は陽炎のような物語を紡ぎ、獰猛なまでに生々しい灼けるような肉体の、終わりのない夢を反復する・・
メキシコの作家ルルフォは、20世紀中葉に遺した二冊の薄い本によって20世紀最高のスペイン語圏作家に数えられています。 とりわけ1955年に発表された本長篇は、ラテンアメリカ文学ブームの草分けとして極めて重要な作品と目されており、マルケスやバルガス・リョサへの多大な影響をうかがわせます。
視点や人称、時間軸を自在に操り、過剰に切り分けた幾つもの断章を絡ませ、連動させながら、些かの弛緩も冗長も許さない緊密さで織り上げていく、その斬新な構成法を絶え間ない刺激として用いることで、200ページ余りの分量の中に、叙事詩さながらのダイナミズムとスケールを圧縮してみせる。
曖昧な生と死、土着的な呪縛、澎湃たる大地の鼓動・・ 汲めども尽きぬ神話的地下水脈の轟音を感じずにはいられない文学空間に呑まれていました。
小説技法や表現の可能性に対して極めて意識的で、文字テクストであるという側面を小説の大きな魅力として位置付けようとする姿勢が好きです。 無論好みが分かれると思いますが。 何かを思い出すための手ががりであるかのように、ささやかな合図を送ってくる固有名詞など、ナボコフを思わせる巧緻が潜んでいて、作者と読者の間で交わされるテキスト遊戯が読解の醍醐味にもなっています。
渾然としているようでいて、死者と生者を繋ぐ境界人はプレシアドだけだったことに気づき、それが単に物語の進行上の措置なのか、それ以上の何かを暗示するのか、無性に気になるのだけどわからなかった。
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サム・ホーソーンの事件簿5 / エドワード・D・ホック
サム・ホーソーンの事件簿5
エドワード D ホック
東京創元社 2007-06
(文庫)


[木村二郎 訳] ニューイングランド地方の小さな町ノースモントで起こる不可能犯罪を地元の医師サム・ホーソーンが解き明かす連作シリーズの5巻目。 深夜に現れては消える幻のロードハウス、郵便受けから忽然と消える本、水を毒入りワインに変える水瓶、広場に展示された案山子の中や地面の奥の古い柩から発見される他殺体、ハーマン・メルヴィルの幽霊が出るテラスや修道院の“知られざる扉”から消える人間・・などなど。
密室状況あるいは衆人環視のもとでの殺人や消失といった不可能趣味満載で楽しい楽しい。 初期に比べるとトリックそのものの息切れ感は否めないのですが、相変わらず手品の仕掛け・・というよりフーディーニ張りのイリュージョンを見破れるか的な好奇心を擽る煌びやかな謎が目白押しです。
サム先生はというと40代前半で、そろそろ町の名士的なポジションが板についてきましたが、周囲からはいよいよ独身主義者とみなされるようになりつつあるこの頃。 レンズ保安官は万年減量中の模様^^
今回背景となっているのは、ヨーロッパで戦争が始まり、アメリカの参戦も間近に迫る1938年から1940年、暗雲が段々と濃くなっていく時代です。 日々の暮らしが脅かされるわけではないノースモントでも、親独派の怪しい動きに人々が眉をひそめたり、戦争の話題がギクシャクした論争を伴ったりと、戦火の影がちらちらと揺れています。
そして遂に最終話ではメリー・ベストが従軍看護婦として海軍に入隊する意志を固めるに至ります。 診療所を退職したメリーの代わりを務めることになるのは、なんとエイプリル。 夫が戦地勤務に召集され、小さな息子と二人でノースモントに戻ってきました。 これもまた戦争の余波。
遠景のストーリーはごくごく淡白なのですが、友情以上恋愛未満のままどこにも辿り着けなくなって、始まらずに終わってしまったサム先生とメリーの関係の、ビターな痛みの上澄みだけを掬い取る、その素知らぬタッチがいいんだなー。 エイプリルの時も思ったけどサム先生ってやっぱり・・罪作りかも。
本巻は、何気に作家や本への言及が多かったのと、犯人特定への一段階凝った手順が印象的。 一番のインパクトは「田舎道に立つ郵便受けの謎」だったけど、密室状況での猫の絞殺事件を扱った「動物病院の謎」が好き。 伏線と構成力に唸ったし、ポーへの目配せが洒落てるし(いっそ猫は黒猫にしたらよかったのに!)、女性獣医アナベルとの運命の出会い作品でもありました。
ボーナス・トラックは2巻目に続きレオポルド警部ものから「レオポルド警部の密室」。 表紙はジョッシュ書店のカウンターにて。
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いい女vs.いい女 / 木下古栗
いい女 vs. いい女
木下 古栗
講談社 2011-08
(単行本)
★★

中短篇三篇を収めた著者二作目の作品集。 絲山賞受賞作。 無意味から勃発的に生まれる破壊力がこんなに心地いいのは、日々、溢れる意味に取り巻かれ疲弊しているからなんだろうなぁ。 このパワー(異質な咆哮の荒々しく噴出するワイルドな不協和音)は、小説と言わず、今の世の中にあって、圧倒的に不足していると言わざるを得ない成分なのかも。
可視化や情報化の渦に呑まれ、絶えず目移りするばかりで一点に注ぐ熱い眼差しを見失うことが常態化すると、浅薄に均質化された多様性と相対的無関心が醸成され、権力機構にとって管理しやすい温順な全体主義社会が生まれる・・ 停滞の中で大人しく衰弱していく閉塞感をメッタ斬るかのごときヴィジョンに貫かれていて、キーワードは(移ろわない)強い視線と(管理や秩序の反義語としてのワイルドを体現する)全裸(笑)だったんじゃないかと思いました。
想定の範囲内から脱却、逃走し、常識を無力化し、既成概念を薙ぎ倒していくかのような放埓さ。 無理やり暴力的な変化を加えられるストーリーは、あって無きがごとしなのだけど、ポルノグラフィーに付帯させた芸術性や詩情性あるいは思想性の、遠大にして雄壮な馬鹿馬鹿しさと、それを凝視するかのような無駄な労力の滑稽味が物語を牽引している感じがしました。
澱みなく、と言うと語弊があるかもしれない。 過剰で雑然とした、お世辞にも上手いとは言えない駄文もどきの長文が怒涛の勢いで繰り出されて、これがちっとも嫌じゃないばかりか、もはや上手いと言っても過言ではないような気がしてくるから不思議。 巧拙が非常に見分けにくいのが魅力になってもいるような。
物語の後先を考えず発想の飛躍に委ねて脱線を繰り返したり、脈絡もないエピソードが不意を突いたかと思ったら無用なまま宙吊りにされたり、訳のわからないことをやって回復不能なまで滅茶苦茶にしたり・・ これを意識的に試みようとしているのです。
それでも一作目の「本屋大将」は一番わかり易く、純度100%のギャグ小説として大いに堪能。 密かにお気に入り クライマックスで大将が振るった長広舌に悶絶し、古栗初体験が本篇だったことを幸せに思いました。
二作目の「教師BIN☆BIN★竿物語」は、何気に小説としての構築力が際立っていた気がします。 デジャヴのような時空の錯綜感が凄く面白かった。
ラストの中篇「いい女vs.いい女」は、もっとも奔放に小説的構造からの逸脱を図っていて、もっとも明瞭に作者の素地が垣間見れる作品だった気がします。
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