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プリンセス・ブライド / ウィリアム・ゴールドマン
プリンセス・ブライド
ウィリアム ゴールドマン
早川書房 1986-05
(文庫)
★★★

[佐藤高子 訳] 1973年の作品。 ファンタジーの傑作であり、ヒロイック・ファンタジーのパロディの傑作であり、メタフィクションの傑作であり、父と息子の甘苦い物語の傑作だ。 絶版が惜しまれるなぁ。
わたしの全人生は、十歳の時に父が一冊の本を読んでくれたことから真のスタートを切った・・と著者のゴールドマンに言わしめ、世界一のお気に入り本だと豪語させる『プリンセス・ブライド』とは、ヨーロッパのどこぞにかつて実在したフローリン国出身のS・モーゲンスターンなる作家が、第一次大戦直後に発表した小説だ。 現在フローリンは他国の一地域になっているらしく、ゴールドマンの父はかの地からアメリカに渡った移民だっだという。 今や自身が父親になったゴールドマンは、希少本となって久しい『プリンセス・ブライド』を探しあて、十歳になる我が息子へプレゼントするのだが反応が悪い。 その時初めて気づくのだった。 父親は、子供だった自分が喜びそうな箇所だけを繋ぎ合わせて読んでくれていたのだと。
扉には、“真実の恋と手に汗握る冒険物語の名作”という副題が意気揚々躍っているのだが、実際のところモーゲンスターンは子供向けの小説ではなく、一種諷刺的な自国の歴史とともに西洋文明における王政の衰退を書き綴っていたのだと知ったゴールドマンが、オリジナル・テキストから大時代的小説の“退屈さ”を抜き取り、まさに扉の惹句そのままの娯楽抜粋版を自ら編集し世に問うべく出版した、それが本書(という体裁)。 そしておそらくは息子を楽しませたい、夢中になる顔が見たいと願う心情がモチベーションになってるんだろうな、と思わせる陰翳が素敵なのだ。
この辺の経緯は、前書きのようなセクションを設けて編集ノート的に記されているのだけど、著者が自身を虚構世界の登場人物の一人にしてしまっているのであって、編集ノート自体がそもそも肉声ではない。 娯楽抜粋版『プリンセス・ブライド』を読むにあたり、読者は著者のゴールドマンとともに読解対象の“外部”に立つことができるが、本書「プリンセス・ブライド」を読むとき、ゴールドマンを読解対象の“内部”に置き去りにして、読者は一人で“外部”に立つことになるという二重性の面白さ、著者の実像、虚像が織り成す想念世界の揺らぎが何より魅力的だ。
腹黒い王子や公爵、美しい姫、恐怖の海賊、殺し屋、姫の誘拐、決闘、黒装束の男、六本指の剣士、狂気の断崖、火の沼、死の動物園、奇跡師・・ あたかも無時間の中に漂っているようなアナクロニックな時代設定。 そこで繰り広げられる中世のおとぎ話、騎士物語、ヒストリカル・ロマンスをフュージョンさせたかのような、愛あり冒険あり策略ありの娯楽抜粋版『プリンセス・ブライド』自体、滅法楽しいのだが、そこへ度々ゴールドマンが顔を出し、あーだこーだと突っ込みを入れる。 自分ででっち上げた架空作家による架空小説を肴にテキスト分析やら史実考証やら学術研究の成果やらオリジナル論考やら、あれやこれや突っつき回すという壮大な洒落、これはもう悪ノリとしか言いようがない楽しさ。
ヒロイック・ファンタジーの強固な定式性を踏まえながらも、そのパロディである本書は、“人生とは不公平だ”という苦い認識に立って展開され、理不尽さという不気味な恐怖を排除していない。 愛と正義の法則の遵守という暗黙の読書契約に違反しているんじゃないかという読者側の不服感も織り込み済みなのだが、そこに描かれているのは黒い哄笑を込めた冷淡さではない。 至高への夢想と挫折という若者の通過儀礼を寓意化しているような側面も感じられ、労りがあり共感があり、それでも人生は捨てたもんじゃないと思えるカタルシスへの導きがある。 そして何より、ワクワクする冒険を語り、ハッピーエンドを語り、子供を懸命に勇気づけ、幸せを願い、狼から守ろうとする親心の尊さが底流していたからこそ、愛おしい物語だと感じたんじゃなかったろうか。
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私のいない高校 / 青木淳悟
私のいない高校
青木 淳悟
講談社 2011-06
(単行本)
★★★★

読み終わった時の鳥肌感がヤバかった。 なんでこんなに怖いと感じるのだろう。 禁書とは言わないけどイケナイものを読んでしまったみたいにゾワッときた。 多かれ少なかれ、主眼がアイデンティティの不在に置かれていることは確かだと思うのだけど、これほど“消しゴムで書く”ことに徹した手法で“不在の存在”を暴いた作品はなかなか例を見ないのではないか。 テーマへの真摯なアプローチと文学的実験の展開とが共存共鳴した傑作だと、わたしには思えた。
ブラジル系カナダ人留学生、ナタリー・サンバートンを受け入れた神奈川県下の女子高、国際ローゼン学園二年普通科菊組の1999年度1学期の様子が日誌風に綴られていく。 時間割、身だしなみチェック、留学生の個別指導、ロングホームルーム、部活動、健康診断、所持品紛失、席替え、修学旅行の準備、修学旅行四泊五日の道程、避難訓練、模擬試験、定期試験、生徒総会・・ カリキュラムやエピソードが担任教師の雑感とともに流れていく。 それだけ。
本編は、実在する「留学生受け入れ日誌」にヒントを得て、その内容を踏襲しつつ、(いみじくも著者が述べる通り)全体をフィクションとして改変・創作した“小説”なのだ。
これが本当らしくて嘘くさい“ヘン”な空気を醸し出す。日誌風と言っても日誌ではなく、単純にドキュメント趣向の小説といった定型には収まらないものを孕んでしまった。
担任教師の目線を拝借しながらも、その上位から作家本人かどうかもわからない何者かが傍観しているような・・ テキストの内と外を成す半二重性、半メタ性が安定を欠いた浮遊感を生じさせている。 怖いと感じるのは、この傍観者の透明な眼のせいなのだろう。 自分の思考の外のことは誰にも考えられないのだと突きつけるかのような。
まずもって、どういう毛色の小説なのか、その決め難さに戸惑いながら読み進めていくことになる。 小説の“色”、あるいは“顔”がないのだ。 しかし段々と意識の裏に薄気味悪さが張りついて離れなくなる。 この挑戦的なまでに上滑りしていく“正常”な空間が日誌ではなく“現実”として描かれている気味の悪さと言ったらいいか。 日誌が日誌風となり、三人称となることで担任教師の心象は解放されているはずなのに、何の検閲を受けているというのか、もはや自分が自分を検閲してることに気づかずにいるのか。
微笑ましい、問題意識を持った、憂慮する、残念な、大いに感心する・・等々の良識的感慨は薄い皮膜越しにしか響いてこず、協調性を身につけ、精神修養を図る人間形成の場において、懇切丁寧に管理される生徒たちは一様にのっぺらぼうで、平板なホログラム状になって漂う名前としてしか認識できない。
あたかも“日誌のように”体裁良く、想定内のアクシデントやハプニングの刺激を得てより魅力的に健全化された日常、それら“他愛のない普通”を体現するお誂え向きなリアリティの破片は、どこか懐かしい青春学園風の善良で温順な、誰もが羨むお手本のような空気の中に居心地よく収まり、満更でもない誇らしさを礼儀正しい慎みで覆い隠しているかのよう。
不吉な亀裂はどこにも生じはしないのだけれど・・ 書かれないからこそどうしようもなく喚起させられる意識がある。 “普通”から外れたことによって排除され、あるいは抑圧されているかもしれない心地よさの裏側の、蓋をし、眼を背けたくなる何がしかを凝視するよう促す衝迫力が本作品にはあった。
嗜みとして他人の心に深入りしない・・人に見られて恥ずかしくないために・・作法としての思いやり・・思い出作り・・至れり尽くせりのおもてなし・・
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突然ノックの音が / エトガル・ケレット
突然ノックの音が
エトガル ケレット
新潮社 2015-02
(単行本)
★★

[母袋夏生 訳] ホロコースト第二世代としてテルアビブに生まれたイスラエル作家の短篇集。 と聞くと、なにか重厚なテーマを双肩に担ってそうな巨匠のイメージを連想しがちなのだけど、ケレットは極めて庶民感覚の作家。
一回揺する度にガラリと変わった映像が立ち現れる万華鏡のような読み心地の超短篇38作は、家庭や仕事や恋愛をめぐる日々の暮らしの中で、生きることの実感を希求する身近な思いに満ちています。 苦い痛みは残るけれど切なる願いの種が撒かれていて、人々を肯定的に見つめる眼差しが印象深くもありました。
そして、そんな思いを機知に変容させるべく、生彩ある筆致を自在の境地に遊ばせています。 説明を排して極度に切り詰めたテクスト。 日常的な感情の次元と奥行きを秘めた奇想の次元を軽々と跨ぎつつ、有無を言わさぬ状況に向き合うことを余儀なくされる人々の、可笑しみや悲しみの陰翳を濃いものにしていく手ぶれのなさ。 本文中に出てくる“月並みを変わったアングルとライトで壊す”という言葉がぴったりくる感じ。
マイベストは表題作の「突然ノックの音が」。 シュールな不条理劇なのだけど、緊張感とユーモアが絶妙。 ドアの外に待ち受ける危険への恐怖と可能性への希望とが綯い交ぜになった狂おしさが行間から滲み出ていて、言いようのない輝きがありました。
“ノックの音”は 本作品集でケレットが用いる最も強力なバネだったのではないかと思います。 同趣のシチュエーションは繰り返し変奏されますが、物語的な冴えを見せる「金魚」が中でもよかったなぁ。 扱われているのは孤独や疎外感なのだけど、胸の奥に哀憫と慈愛の小さな灯りがともるようで。 願いを三回叶えてくれる金魚という道具立てはロシア民話に材を取っているのだそう。
白い石の下の穴の中に広がる別世界を夢想した「嘘の国」の優しさ、ボタンのかけ違いのような負の連鎖を描いた「チーザス・クライスト」の鋭利さも魅力的だった。
閉塞感を逃れようと居場所を探してる感じは凄くあって、変化への期待と恐れは“ノックの音”以外にも転生やパラレルワールドや変身モチーフに投影されていたのではなかったかと思いました。 転生ものも結構多いのだよね。 その中で一番のお気に入りは「終わりのさき」。 キュンと切なくなって堪らなかった。
安息日、シェケル通貨、割礼式、キパ(帽子)、清浄食規定、ファラフェル屋台、兵役、シオニスト、ノブレス(イスラエル煙草)、仮菴の祭・・ 馴染みのない単語が無造作に出てきたり、自爆テロが日常と隣り合わせだったり。
移民国家の民族的多様性、マジョリティとマイノリティ、地域の特色や格差など、当然ながら作者との理解の共有が出来ておらず、文化的記号表現が分からずに様々な機微や妙味を見逃していることは間違いないだろうし、さらに本作品は、“スラングまじりの市井の言葉”を多用しているそうで、登場人物が自分の日常的な言葉で喋る、その語り口はどんなにか強い喚起力に満ちていることだろうと、これもまた想像するしかありません。
にもかかわらず、読みの可能性を摘みとらない姿勢はどこまでも読者を選ぼうとしておらず、国や文化を事もなげに超えて、生身の人間の息遣いとして心を繋げずにはおれない普遍性に行き着いています。
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モンスターズ / アンソロジー
モンスターズ
−現代アメリカ傑作短篇集−

アンソロジー
白水社 2014-08
(単行本)


[副題:現代アメリカ傑作短篇集][B・J・ホラーズ 編][古屋美登里 訳] “モンスター”に因んだ短篇を集めたアンソロジー。 版権上の都合でしょうか。 全訳ではない(2篇外されてる)ようでちょっと残念。 2012年にアメリカで刊行され、編纂者も出版元も執筆陣もマイナー尽くし・・と紹介されています。 でも、エイミー・ベンダーとケリー・リンクが入ってるだけで十分そそられるものがあります。 訳者さん見逃してる?けど、ジェディディア(ジュデダイア)・ベリーの「探偵術マニュアル」も2011年に東京創元社から邦訳出てますので念のため補足。
がしかし。 期待したほどにはフィットしなかったのだよなぁ。 ファンキーでポップでナンセンスな奇天烈系っぽい感じを勝手に想像しちゃってたギャップもあって。
フランケンシュタイン博士の怪物やヴァンパイアやゾンビや・・ モチーフは目白押しなんだけど、結局、自己の内部のモンスター性を具現する手段としてモンスター的な演出を採用するというお定まりの比喩的解釈ばかりで、社会の中に生きる人間の心理にスポットが当てられていた印象。
手に負えない自身の違和を持て余し、またそのせいで周囲と齟齬を来たしたり、居場所をなくしたり探し求めたり・・みたいな現代人のさまよえる魂を如何に群像化するかのヴィジョンが中心だった。
現実との密着感&ウェット成分が嫌じゃなければ問題なくお勧めできるし、良作揃いだったとは思うのだけど。 うーん・・自分としてはモンスターが足りない;;
身体の内側に抱えたおぞましさを逆にモンスターのメタファとして描いてるのが「わたしたちのなかに」で、ここまでくるとゾッとするくらいの凄みがあった。
ひょっとすると「受け継がれたもの」が一番オーソドックスなのにもかかわらず、視点の違う示唆と妙味を返って新鮮に感じたかも。
それとやはり「モンスター」の展開力は群を抜いてた気がする。 グロテスクで滑稽で意味不明で不気味。 個人的に気に入ってるのは「ゾンビ日記」。 無駄に(?)前向きで協調生のない俺キャラ(一人称“ぼく”だけど)がなんだか捨て難くて^^; あと「モスマン」はちょっときゅんとくる。 絵は強しっ♪

収録作品
クリーチャー・フィーチャー / ジョン・マクナリー
B・ホラー / ウェンデル・メイヨー
ゴリラ・ガール / ポニー・ジョー・キャンベル
いちばん大切な美徳 / ケヴィン・ウィルソン
彼女が東京を救う / ブライアン・ボールディ
わたしたちのなかに / エイミー・ベンダー
受け継がれたもの / ジェディディア・ベリー
瓶詰め仔猫 / オースティン・バン
モンスター / ケリー・リンク
泥人間(マッドマン) / ベンジャミン・パーシー
ダニエル / アリッサ・ナッティング
ゾンビ日記 / ジェイク・スウェアリンジェン
フランケンシュタイン、ミイラに会う / マイク・シズニージュウスキー
森の中の女の子たち / ケイト・バーンハイマー
わたしたちがいるべき場所 / ローラ・ヴァンデンバーグ
モスマン / ジェレミー・ティンダー
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葬儀を終えて / アガサ・クリスティー
葬儀を終えて
アガサ クリスティー
早川書房 2003-11
(文庫)
★★

[加島祥造 訳] イングランド北部に大豪邸を構えるアバネシー家の当主リチャードが傷心の中、急死する。 葬儀を終えて親族一同が久方ぶりに集まった遺言公開の席上、“リチャードは殺されたんじゃなかったの?”と唐突に言い放った末の妹コーラ。 彼女は翌日何者かに惨殺されてしまう。 コーラの一言は波紋を広げ、親族は疑心暗鬼に。 顧問弁護士から依頼を受け、ポアロが捜査に乗り出します。
冒頭にたいそうな家系図があってギョッとなったのですが、老執事のモノローグから始まる本文をめくっていくと、いつものことですが、あっという間に作品世界に引き込まれてしまいました。 老執事がひと通り登場人物を印象づけてくれて、また、心配するほどその数も多くはありません。
遺産相続問題で、いわくありげな親族一同が右往左往し・・からの、土台からひっくり返されるがごとき真相のパノラマは目から鱗で、本当に鮮やかな作品。 ミスリードの賜物なんですが、読み返すと伏線も見事。
類型的人物造形が相変わらず達人の域。 ティモシーのムカつくことと言ったら! ムカつきながらも描き方があまりに皮肉的なのでニヤニヤしてしまうという。 こういう人物に出会うのがクリスティーを読む密かな愉しみだったりします。
大きなお屋敷は売りに出しても買い手がなかなかつかない状況、天然記念物になりつつある忠義の執事、召使いから家政婦へ、商売人と結婚することを厭わない良家の娘など、透かし見える背景に1950年代の世相、現代に近づきつつある時代の変化も感じ取れます。
ポアロは今回、正体がバレるまで、よりカタコトの外国人“ムッシュー・ポンタリエ”の偽名で登場しています。 名前w イギリス人にとってこの名前の響きがどんな感じなのか実際わからないけど、絶対おちょくってるでしょコレ 笑
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