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怪しい店 / 有栖川有栖
怪しい店
有栖川 有栖
KADOKAWA/角川書店 2014-10
(単行本)


“店”を主題にした5作を収める作家アリスシリーズの短篇集。 “宿”にまつわる短篇を集めた「暗い宿」の姉妹編といった位置づけで、タイトルもシンメトリックですね。 腹案は十年も前から温めていたらしい。 荒俣宏さん編纂のアンソロジー「魔法のお店」に触発され、“店”の魅力や怖さを本格ミステリの枠内で書いてみようと試みた、とのこと。
有栖川さんご本人がおっしゃる通り、“商品やサービスを介して人間と人間が交わる場面で生まれるドラマ”を主体としているので、ミステリアスという意味での“怪しい”雰囲気はそんなに強くなかったものの、日常の中にふとした異空間を生じさせる“店”の持つわくわく感やざわめきが、ホットに描きとめられていた印象。
「古物の魔」は、あまり繁盛していない商店街の骨董屋で起こった店主殺害事件。 人称と視点の使い方が巧妙。 一瞬トリッキーに感じるんだけど、読み返すとちゃんと理に適っている。 犯行時刻の偽装がアリバイづくりとは無関係に企てられていて、その理由の特異性がミソ。 まさにタイトルを物語っているかのよう。
「ショーウィンドウを砕く」は芸能プロダクションの社長が完全犯罪に挑む倒叙もの。 短篇で時々書いてくれるこのスタイル、結構好きなのです。 火村&アリスを他視点から眺められて。 初対面時の犯人曰く、火村先生は“勝負師を連想させる”そうで、アリスは“人畜無害”とな。 合ってるし^^ それだけに、犯人がラストで示す火村評には波紋を投げかけられるしゾクッとなる。 “店”が唯一、実際の舞台ではないモチーフとして扱われており、やや観念的な意味合いを帯びてもいて、人の心とサイコパスの交差点を探るようなそこはかとないシリアスさが感じられる。 証拠をひねり出すロジックと、そのプロセスが光りました。
表題作の「怪しい店」は、繁華街から大きく外れた裏路地に粗末な看板を掲げる謎の店“みみや”で、風変わりな商売を営んでいた女性が殺害される事件。 趣向の見せ場はあるのだけど、基本は“射程の長い憶測が的中する”といったパターンなので、決定的な証拠ドーン!じゃない分、前述2作より見劣りする気がしないでもないかなぁ。
3篇の幕間を成すように挟まれた「燈火堂の奇禍」と「潮騒理髪店」の2篇は、ほとんどハートフルな日常の謎系。 辻褄合わせゲームを楽しむことに特化したタイプの気の利いた小品。 「燈火堂の奇禍」は、大家の婆ちゃんの誕生日を祝いに火村先生の下宿を訪ねる途中、ふらっと入った白川通の古本屋で、臨時店員と常連客からアリスが仕入れた古本万引事件の謎。 「潮騒理髪店」は、調査旅行で出向いた日本海沿いの小さな町で、ローカル線の待ち時間を潰すため、ノスタルジックな地元の理髪店の一見客となった火村先生に、店主が語ったとある女性の行動。 その真相がどちらも火村&アリスのなごなご安楽椅子モードで回想され、紐解かれるところに萌え要素あり。
筆がはかどらず、散髪に行こうと思い立ったところで、“理髪店が舞台のミステリ”へと連想を遊ばせたアリスが、脳内トリビアを列挙してくれるくだりや、火村&アリスや登場人物が披露するちょっとした商売哲学や“店”の美学談義、隠れ家的な喫茶店でのアリス&コマチ刑事チームの反省会あたり、プラスアルファのお楽しみ・・かな。
因みに「燈火堂の奇禍」で万引された本は「乱鴉の島」に登場した孤高の象徴派詩人、海老原瞬の詩集『黒色僧徒』でした。
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死の扉 / レオ・ブルース
死の扉
レオ ブルース
東京創元社 2012-01
(文庫)
★★

[小林晋 訳] 長らく絶版状態にあった知る人ぞ知る(?)プレミアムな古典ミステリが新訳で復刊! なのだそうですね。 何も知らずに生きておりました。
そもそも、レオ・ブルースの作品というのは、アメリカ版が刊行されることが少なかったようで、本篇も例外ではなく本国イギリスのみの刊行だったせいもあり、原書はちょいとお目にかかれないほどの稀覯本になっているとか。
パブリック・スクールの上級歴史教師、キャロラス・ディーンが素人探偵として活躍するシリーズの一作目。 本シリーズは23作の長篇を擁するそうですが、今のところ邦訳は数篇のみという寂しさで、しかも版元がバラバラなんですね。 わたしはウェルカムだなぁ。 この作風。
イギリスの小さな町ニューミンスターのマーケット・ストリート地区にある一軒の小間物屋の一室で、強欲な老婦人店主と巡回中の警官が時を前後して殴殺される二重殺人事件が発生。 キャロラスは教え子の悪童たち、とりわけルーパート・プリグリーに焚きつけられ、独力で事件の実地捜査に乗り出すことに。 この気障で小生意気な16歳の青二才、プリグリー少年が助手役を務めます。 でもわたしのお気に入りはおバカなテディボーイ♪
因みに舞台背景は1954年。 キャロラスは40歳。 結婚して間もなくのロンドン大空襲で若妻を亡くして以来の男やもめ。 父の莫大な遺産を相続し、高級車のベントレーを乗り回す衣裳持ちでもあり、伝統を重んじる保守的な教育の現場では、規格に合わないやや特異な存在でもあります。 現代の捜査法の光に照らし、歴史上の華々しい犯罪の真相を探ろうとする(歴史ミステリ的な?)ベストセラー本を執筆した過去があり、地元ではちょっとした有名人。
新聞の見出しを賑わす浅ましく恐ろしい暴力事件など警察に任せておいて、埃臭くも心踊るロンドン塔界隈の優雅な思索に耽っていた方が良かったのではないかと、時に自問自答しながらも、犯罪研究の実践応用を試みるという刺激的情熱に駆られ、探偵活動が止められないキャロラスなのです。
被害者の因業婆は、彼女を知っている者全員に動機があるというほどの嫌われ者。 容疑者(候補)から、なかなか誰も除外できないし、確たる容疑者へ昇格させられるほどの不利な証拠も見つからないまま捜査は難航を極めます。
直観の光明が差すまでコツコツと地道な聞き取り調査の行程が続くのですが、皮肉な人物描写や会話のウィットが読むものを飽きさせず、軽妙洒脱なコージーミステリの趣きがあり上品で愉快。
多数の印象と、告白の集積と、証拠の断片・・ 手にした情報の山のどこかに、ただ一人の人物を指し示す事実がある。 読者への挑戦状こそ挿入されてはいないけれど、フェアプレイ性の高い、かなりシンプルな謎解きもの。 自分は早い段階でわかっちゃったんですけど、構図をそのままに同じ材料から全く色を変えた裏表の絵を描き上げるという発想の転換的な趣向において、お手本のように端正な作品であり、また、いかに説得力に富む“仮説”を提示できるかという、物的証拠に頼らない、あくまで辻褄合わせの出来栄えを愛でるタイプに近いような。 そして、たとえ勘づいてしまっても推理披露の段でのがっかり感は全然なく、トータル的に言って相当に楽しかったというのが偽らざる気持ち。
レオ・ブルースにはもう一つ、ビーフ巡査部長を探偵役とするシリーズがあり、一作目の「三人の名探偵のための事件」だけ既読なんですが、非常に奇を衒った作風で、本作の小味な雰囲気とは随分と異なる印象を持つものの、あちらでは存分に発揮されていた伝統的な探偵小説のお約束を茶化すようなセルフコンシャスな要素が、こちらでも微かに効いていて、マニア心を擽る作家だなぁとの思いを深くしました。
邦訳が進んでくれたらいいなぁ。 小さな町とキャラクター、英国調の物腰が魅力的で愛着が湧きそうなシリーズだもの。
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近世物之本江戸作者部類 / 曲亭馬琴
近世物之本江戸作者部類
曲亭 馬琴
岩波書店 2014-06
(文庫)
★★★★★

[徳田武 校注・編] 天保4年から5年(1833〜1834年)頃に馬琴が著した江戸中期から後期にかけての戯作文学者の評伝。
朋友から所望されて執筆したプライベート本なので主観ポジションに仁王立ちして相当やらかしてます。 流石にこれは公刊できないわ。 写本の形でのみ伝わる秘本なのだそうです。
しかし、世相を反映した出版事情の変遷とそれに伴う戯作趣向の流行り廃りを捉えて体系化したその的確さは、今日の戯作研究を支える大きな遺産になっているのだから恐れ入る。 当時巷に囁かれたり、或いはごく一部にしか知られていなかったような諸作者にまつわる下世話事や、作者と版元の内々のせめぎ合いなど、一次資料としての生々しい証言を兼ね備えており、同時代人にしか書けない江戸文壇史として魅力満点の読み物でした。
ちょっとした勘違いや不足などは適宜校注で補われているけれど(これが誠に有り難かった!)、馬琴の奔放な語りがあくまでも尊重され損なわれていないので、どこまで信用していいものやら・・ 評価が定まっている今日では味わうことのできないような玉石混淆ぶりが逆に新鮮に感じられ、そんなところも面白く読みました。
最初、赤本(主に黄表紙・合巻)作者の部では有名無名つぶさに洗い出そうとする勢いが感じられるのですが、その作業に倦んでしまったのか、続く洒落本・中本(滑稽本・人情本)作者の部では目ぼしい作者だけの記載にとどまり、いよいよ馬琴にとっての真打ちたる読本作者の部に至って、取り分け第一人者として君臨する自身について存分に語り尽くしたところですっかり満足し切ったらしく、予定していた読本作者の部の後半、浄瑠璃作者の部、画工・筆工・彫工の部は未執筆に終わっています。 なにこの流れw 人間臭くて憎めませんねぇ。
はっきり言って自負心と自己正当化の権化のごとき著述なのだけど、師弟関係とは逆にまるで兄のような尊大さながら、山東京伝に対してだけは深い感慨が読み取れる。 京伝が吉原の遊女に入れ込んで三年も原稿を滞らせたり、京伝と組んだ豊国が腕に驕り図に乗って俺様化してしまったり・・ 落とし話のような版元泣かせの逸話などは、身近で見ていた者の目線として伝わってきます。 例の手鎖五十日の経緯を詳らかに記しながら京伝の名誉を努めて守護ろうとしていたり。 まぁ、読本グラウンドでは馬琴の完全勝利だから余裕の顕れなのだろうけど。
余談ですが。 絶筆となった「双蝶記」での京伝の挑戦は、円朝や二葉亭四迷の功績大きい言文一致運動の萌芽だったんじゃないのかな。 まだ時が早すぎて受け入れられず、馬琴などはそら見たことかと思ったかもしれないけど。
浮世を茶にした作は好まず、勧善懲悪を旨として暗に読者の蒙昧を醒ますような徳のある儒教思想を汲んだナラティブな著述を重んじる馬琴にとっての戯作の正統とは、筋や構成にプライオリティを置く“読本”に他なりません。 そして、読本とは中国の稗史小説に拮抗できる日本版の稗史小説でなければならず、翻案が首尾一貫していればいるほど理想に近づくと主張するのが馬琴流。 「水滸伝」を換骨奪胎し、日本の古語で綴った建部綾足の「本朝水滸伝」を(原典を踏襲しきれてないので)未熟だとしながらも読本の嚆矢と位置付けて、その意義深さを説きます。 ここら辺、精神的山場の一つだったように感じました。
もっぱら作者評は貶し(欠点の強調や粗探し)か、嫌味まじりの褒めか、上から目線の憐れみか、興味なさげなふりか、自分アゲアゲのどれかなんだけど、朋誠堂喜三二と恋川春町は(黄表紙の生みの親として)皮肉抜きに評価してると思えたし、芝全交、唐来参和あたりに対しても滑稽の上手、趣向の上手と評し、まぁ好意的と言っていいくらいだし、大田南畝や平賀源内の(戯作以外の)才能には一目も二目も置いています。
一方、十返舎一九や柳亭種彦などはしぶしぶ評価しながらも手厳しく、蔦重も書肆としての並外れた才は認めているが遺恨ありげ。 豊国はその驕りぶりが気に入らないけど単純バカだから許してやろうくらいな感じか。 式亭三馬や為永春水に至ってはクソミソ。
そして京伝の弟の山東京山との確執。 京伝の没後に起こった家督の相続をめぐる騒動周辺の事情は付録として収められている「伊波伝毛乃記」(馬琴による山東京伝の評伝)に詳しく、更には、京山による馬琴の評伝「蛙鳴秘抄」が追録されており、亡き京伝を挟んだ馬琴と京山の反目のあらましを双方向的に読むことができます。
「伊波伝毛乃記」は、史実として鵜呑みにできるかは別として、因果応報の整った構成と運びは一篇の物語のように秀逸。 これを読んで京伝への愛着がひとしおです。 世俗が“牡丹餅の印”と呼んで親しんだ京伝愛用の“巴山人”の印をひと目拝みたくて画像を探してしまいました。
絵師、狂歌師、浄瑠璃語り、落語家、狂言作者など、戯作を本業としない烏亭焉馬や初代林屋正蔵、四世鶴屋南北(戯号は姥尉輔)や、葛飾北斎(戯号は時太郎可候)など、また逆に戯作から他文芸へ転向して成功した鹿都部真顔や桜川慈悲成などの名前も見受けられます。 しかし専業作家の馬琴にしてみたら片手間野郎は気に入らないとばかり殆ど一蹴。
当代の人気歌舞伎役者が戯号を用いて著した作の殆どは代作だったらしいのだけど、これについては歌舞伎役者の名を借りて自作を出版し恩恵を受ける無名の戯作者側に罪過ありとし、代作を生業とする作者の志の低さや、作家を唆す版元の儲け主義や、善し悪しを解さない読者のミーハー感覚を腐していたり、才技の伴わない者が名誉を欲しがる俗情から手っ取り早く古人の名号を継いであたら由緒を冒す傾向にも毒づいています。
馬琴自身が本意ではないものを版元に書かされる時の別号は、傀儡子、玉亭、逸竹斎達竹など。 他にも著作堂主人、蓑笠翁、信天翁、蟹行散人、彫窩、玄同・・など様々使い分けるのですが、理由あっての改称であることを釈明し、その道義を説き、独自の美学をアピールすることは怠りません。
それとこれとは違うとして例えば、三馬に“三”の文字を受け継ぐ弟子が大勢いるのは、むやみに別称を名乗らせ、実際の人数よりも弟子の数を水増しして虚栄を満たしているからだといちゃもんつけてみたり、円屋賀久子なる女流戯作者は為永春水の成りすましに違いなく、自作が売れないから婦人の作という物珍しさで世間を騙くらかそうとしている的な言いがかりをつけてみたり。
馬琴はこうでなくちゃ! という期待を見事に裏切らないのが頼もしい 笑 なんて油断してると、ごく稀には完膚なきまでの正論に穿たれもするし、杓子定規の不器用さに絆されもする。 なぜか嫌いになれない人。
寛政の改革によって世の時好は仇討物に移り、追って滑稽本が台頭してくるのだけれど、一気に洒落本が廃れたわけではなかったんですね。 その頃流行りの“心学”でカモフラージュするなど、あの手この手の回避策を駆使して寛政の末頃まではかなり盛んに作られていたのだとか。 手鎖五十日の咎めというと山東京伝と蔦重が有名だけど、一九も歌麿も豊国も春水も三馬も筆禍を被っていたんだね。
彫師(米助)と版元(角丸屋甚助)の金銭トラブルに関わったとして、馬琴がお白洲沙汰に巻き込まれる件も面白かった。 馬琴が米助を手引きしていた証拠を握っているとして、馬琴の米助宛て書簡を角甚がお奉行所に提出するのだけど、それを見た吟味与力が、文中で他愛なく使われていた“天下”という一語に目をとめて、甚だしき過言也! と本筋そっちのけで反応してるのが可笑しい。 この顛末は馬琴と角甚、馬琴と米助、それぞれの後日談もまた小説のように読ませる。
雅であり、俗であり・・ 何気ない描写が自ずと発散してしまう江戸文芸情緒の、その現物の美風を、肺の奥までたっぷりと吸い込んでページを閉じました。 佳き読書体験でした。
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蟲の神 / エドワード・ゴーリー
蟲の神
エドワード ゴーリー
河出書房新社 2014-06
(単行本)
★★★

[柴田元幸 訳] 本書は『ビネガー作品集 −教訓本三作−』(なんだそれw)と題して、「ギャシュリークラムのちびっ子たち」と「ウエスト・ウイング」と合わせた三冊セットで出版されたうちの一冊だそうです。 惨たらしくもシュールなこの感じは安定の黒ゴーリー・ワンダーランド。
悪い子が魔物に攫われて食べられてしまう子供向け教訓物語の不条理ヴァージョンと言いましょうか。 幼い少女ミリセント・フラストリィは悪い子じゃない(いい子かどうかも定かじゃない)けど、唐突に攫われて“蟲の神”の生贄に捧げられてしまいます。
いざ捧げられるところで終わりますが、まぁアレだよね、食べられちゃったよね。 裏表紙のお腹の膨らみからすると・・丸呑み;; 満腹(?)の蟲を見ていると、後ろめたくも場違いにクスッとなってしまいます。 「まったき動物園」にいそう^^; もう虫じゃないでしょ!その姿はw と突っ込みたくなります。
どっからどう見ても悪魔(死神?)の化身さながらの蟲一味。 よからぬオーラ全開の、その禍々しいことと言ったら! なにか邪悪で面妖な秘密結社を連想させるものがあり、およそ世紀末ヴィクトリア朝ロンドンの暗黒面を感じさせるミステリアス・ムードもりもりの作品です。
やっぱり、禍々しいことやってますよっていう、素ではなくてネタなんだよなぁ。 そんなところがゴーリーの中毒性だと思う。
行方不明になったミリセントを心配するフラストリィの一家は、往年の裕福な良家といった体の粛々として沈鬱なゴーリー印満点の佇まいなのだけど、赤ちゃん(ミリセントの妹か弟)がなんか怖い・・扱われようが犬みたいで。 一番そこに薄ら寒さを感じてしまったのは何故だろう。
見返し遊び紙の隅のカットに見覚えが! パン屑じゃなくてドクロを撒きながら歩いてるヘンゼル風のとぼけた可愛い坊やは「ウエスト・ウイング」でも見かけた子。
本来あるべき童話や絵本が示すポジの世界と対を為す唯一無二なるネガの世界・・ この坊やの絵にはゴーリー作品のなんたるかをふと直観させるものが宿ってるような。 もしかして三冊セット本のシンボルマークだったのかな?と思ったけど「ギャシュリークラムのちびっ子たち」には(少なくとも翻訳版には)いませんでいた。
ABAB形で脚韻を踏んだ四行連句の原文は、今回は七五調の訳に生まれ変わっています。 古風な語りものめいた味わいが不気味さを引き立てていてぴったり。
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むしのほん / エドワード・ゴーリー
むしのほん
エドワード ゴーリー
河出書房新社 2014-12
(単行本)
★★★

[柴田元幸 訳] クリスマスのギフト用の限定本として作られ、翌年、一般のハードカバー本として刊行されたごく初期の作品らしい。 モノトーンの緻密な線描ではなく、カラフルでポップな絵柄は“可愛らしい”と評するのがぴったり。
青、赤、黄色。 いとこ同士でご近所住まいの色違いの小さな虫たちが仲睦まじく七匹で暮らしているところに、ある日突然、黒い大きな虫がやってきて彼らの楽しい日常を破壊してしまいます。 色違いの虫たちは相談し合い、力を合わせて悪さばかりする乱暴な黒い虫をやっつけ、共同体の平和を取り戻すのでした・・めでたしめでたし。 という超オーソドックスな勧善懲悪のお話。
いつもながらストーリーは単純明快で、言うなれば、古典的な児童書、素朴な昔話のテイスティング。 なんだろう、ちょっと「敬虔な幼な子」を思わせる作風。 表面上、なんらパロディに改変して描いているわけでなく、昔話の定型をそのまま踏襲している感じに過ぎないのに、ゴーリーの手にかかるとどうてこうも薄ら寒くなってしまうのか。
昔話なら許されるはずの残酷さを素直に味わえないというか、昔話を昔話としてもはや読むわけにはいかない現代人の感覚を揺さぶり起こされるというか・・
姿形や性質や生まれの違う異分子を排除しようとする気味の悪さ、不穏な怖さは、ゴーリーがあからさまに描いていないからこそ、いや、それ以上にサイレントメッセージを忍ばせている素振りさえ露ほども示さないからこそ、否応なく炙り出されてくるとしか言いようがない。 センシティブでタブーなところを素知らぬ顔してほのぼのと淡々とえぐる辺り、非常にゴーリーらしい絵本だと思う。
本国では刊行当時、一部で黒人差別と取られ批判されたそうだが、むしろ一段次元の外側から人種(だけではない)差別のあらましを風刺しているように思う。 両者は真反対の読解ということになってしまう。 むろん、全ては読者に委ねられているのだが。 一見なごなごとっつき易いだけにかえってゴーリー上級者向けかなぁ。
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