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モダンガール大図鑑 / 生田誠
モダンガール大図鑑
−大正・昭和のおしゃれ女子−

生田 誠
河出書房新社 2012-11
(単行本)
★★

[副題:大正・昭和のおしゃれ女子] 大正末期から昭和初期にかけて流通した絵葉書や絵封筒、雑誌、パンフレット、広告チラシ、ポスター、マッチ箱、流行歌の楽譜、写真などから、往年のモダンガール像を探ることを試みた解説付きの図版集。
服装や髪型や定番アイテム、職業、娯楽、スポットなど、様々な角度から鑑賞できるよう、分類、陳列されています。 1925年(大正14)のパリ万博の影響でアール・デコ調にすっぽりと覆われつつも、大正ロマネスクの余香を残したこの時代のモード、いわゆる“昭和レトロモダン”にはえもいわれぬ空気感がありますねぇ。 因みに表紙はサッポロ・アサヒビールが作った絵葉書の代表的な一枚。 日本酒メーカーは和装、ビールメーカーは洋装の女性をポスターや広告に挙って描いたそうです。
近代日本の新風を一身に浴びてモダン都市を闊歩した、短い華やかな一時代の寵児だった“モダンガール”。 大震災から復興した新しい都市の象徴的存在だったというのがまず基調にあって、そこに洋の東西を問わず大衆文化が花開いた大戦間の機運に乗じて西洋の文化芸術が滔々と流入し、更には機械文明の進歩による大規模な消費文化の台頭や、幅広い労働力を求める多様性のニーズに後押しされて・・といったような、モダンガールが一躍モダン都市文化の広告塔へと躍り出た背景を、数々の図版は物語るかのようでした。
著者が収集と研究の対象にしているという絵葉書の図版がやはり最も充実していて、特に多く紹介されているのが資生堂の「現代化粧百態絵端書」。 販売店や顧客のための宣伝用絵葉書として作ったシリーズらしいのだけど、今となっては当時のモダンガール風俗を知る貴重な資料にもなっているんですね。 画家や写真家がお洒落デザインを競ったという三越百貨店のPR誌「三越」の表紙のセンスも光ります。
逆に、有名画家や図案家のパクリなんかもやらかしながらキッチュな賑やかしに満ち満ちていた怪しげなマッチ広告などは、ナイトシーンを彩る闇の花のようです。 当時流行りのエロ・グロ・ナンセンスの息吹きでしょうか。 アール・デコっていう形態は、上品さもアングラ感も分け隔てなく呑み込んでしまう驚異の親和性があります。
浅草〜上野間に日本初の地下鉄が開通したのが昭和2年。 この時のポスター「東京唯一の地下鉄道」を描いたのが杉浦非水で、この一枚だけは見たことがありました。 極端な遠近法を使ったデザイン性の高い洗練された作品です。
モダンガールの描き手としては、大正ロマンの血を引く高畠華宵、蕗谷虹児らの叙情画家や、そこへ西洋のエスプリを吹き込んだ東郷青児らの本職画家系と、今でいうデザイナー的な位置づけにあった小林かいち、高橋春佳ら図案家や、斎藤佳三といった統合芸術家系、また、名前も残さなかった夥しい無名の作家たちが加わり、妍を競うような饗宴を繰り広げています。
ちょっとなおざりタッチの細い線画でとろんと虚ろな瞳が印象深い須山ひろし、デスォルメされた構図が冴え冴えとクールなSIN、美人美人してないところに味がある鈴木寿雄、モダンとメルヘンが綯い交ざったような伊藤としを・・ 無名に近い(?)ながらも作者不明ではない作品も多く紹介されています。
ただ、惜しいことに全てがカラー刷りではないんですよね。 特に和装のモガと画家の描いたモガのセクションが2色刷りだったのは残念至極。 その分、お手ごろといっていいお値段ではあるかと思うのですけども。
男性から自立し、職業に就き、古い因習を飛び出して自由を謳歌する“近代的で新しいタイプの女性”の総称がモダンガールであり、そこには光と影のイメージが乱反射しています。 男性の銀ブラに同伴サービスする“ステッキガール”なる職種が出現するのは時代ならではですね。 しかも女性たちはこの名称を気に入らず、“ガイドガール”と自称していたというから面白い。 昭和4年は兎の襟巻、翌5年は狐の襟巻が流行したそうで、絵を見るだけで描かれた年がわかるらしい。
大宅壮一は昭和5年に刊行した自著「モダン層とモダン相」の中で、“化粧は恐ろしく念入りで、どういう過程を経て、あんなにまで微に入り細にわたってやれるものか、私には見当が付かぬ”と、モガの化粧熱について語っていて、こういう生態は今も昔も変わらないよなぁとニヤッとなります。 耳たぶにも紅をさすのが定番だったらしい。 イヤリングは普及してなかったんですかね。 猫がアール・ヌーヴォー芸術を象徴する動物であったなら、アール・デコのシンボルとなったのは犬だったという点にも興味をそそられました。 愛犬とモガのショットも盛んに素材とされていたようです。
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厳重に監視された列車 / ボフミル・フラバル
厳重に監視された列車
ボフミル フラバル
松籟社 2012-09
(単行本)
★★★

[飯島周 訳] フラバルは20世紀後半のチェコ文学を代表する、いわゆる“亡命文学”の担い手(西側諸国で出版されたという意味で)の一人なのだが、さまざまな悩みや葛藤を抱えながら国内に留まって創作を続けた作家だそうだ。
ナチスドイツの保護領だったチェコ。 主人公のミロシュ青年が見習い操車員として勤務する国営鉄道の小さな駅が舞台である。
最優先の厳戒兵員輸送列車を始め、行き交うのは家畜を乗せた貨物列車や、物資や郵便を前線に届ける急行郵便車や、傷病兵を運ぶ病院列車・・ 軍事における重要なインフラであったろう鉄路の光景が活写されている。
ミロシュ青年の語りなのか、そこから広がる何かなのか、のたくた長いセンテンスは文法を超えて折重なるように蠕動し、イメージのピントを撹乱する。 原文の感触は一体どんな風なのだろう。 わたしなんかが一度読んだくらいで何かを語れるような小説ではなかったものの、理解というかたちに回収できない悩ましさが読後ずうーっと胸に居座ってしまった。
1945年2月。 戦争も末期で敵も味方も疲弊し、殺伐と、そして何処となく遣る瀬無い気配が揺曳している。 燻る誇りや憤りを微妙に拗らせた抑圧下にあるライフスタイルの精神性が戯画の中に鮮烈に息衝いているのを感じる。 民話のようなエピソードが断片的に煌めく大らかで猥雑な風土と、感受性の強いミロシュ青年の痛々しくも凡々たる性の悩みの滑稽さに、極限状態での感覚の麻痺や認知の歪みが縒り合わされて、落ち着きの悪い何とも特異な悲喜劇的世界を出現させている。
乾いた死や不条理が充満し、静かな狂気をどうしようもなく孕んでいるかのような映像美に対し、卑小なウィットとして描かれるエロスは紛れもない“生”の象徴だ。 ミロシュ青年に託されたモチーフはいじましい生への希求であったろうに、彼がせっかく手にした生のエネルギーが、こうも容易く無造作に死のそれへとスライドしてしまうとは。
戦時下で“男になる”とはこういうことなのかと、シリアスなラストにも一抹のアイロニーが漂うかのようで、気持ちの行き場をどうにもロストしてしまう。 若さという未熟と非日常化した日常がチグハグに凸凹に絡み合っている可笑しくて哀しいキメラのような物語であった。
メランコリックな装いなのに一皮剥けば恐ろしいほど冷めた突き放しがある。 戦時を生で体験した者でなくては絶対に描き得ない境地なのではなかろうか。
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角の生えた男 / ジェイムズ・ラスダン
角の生えた男
ジェイムズ ラスダン
DHC 2003-11 (単行本)
★★

[谷みな子 訳] 7年前イギリスからアメリカに渡り、現在は、家を出た妻への未練を引きずりながら、ニューヨーク郊外の大学でジェンダー論を教えているローレンス・ミラーによって綴られた一人称の手記。
自身が携わる学問の理念を実現するのが職業上の責務と心得て、セクシャル・ハラスメント委員会のメンバーを務めている“私”ことミラーは、学生に対して秘めた衝動を仄めかすような醜態を見せないよう細心の注意を払って対応していると自負しています。
ある日、自分の研究室の書棚から一冊の本を取り出して、栞の挿んであったページを読もうとした“私”は、来客に中断され、栞をそのままに本を書棚に戻すのですが、翌日、再び開いてみると栞の位置が変わっていることに気づくのでした。 その日、診察室で“私”はセラピストに尋ねます。 ひょっとして“錯誤行為”の一例だろうかと。
この冒頭シーンで交わされる会話は、“私”による予防線であると同時に作者による布石であり、結末と綺麗に照応しています。
この栞の移動現象をきっかけに、“私”の周囲で次々と起こり始める不可解な出来事。 身に覚えのない通話記録、書いてもいない手紙の存在、隠れるように置かれていた金属棒、嫌がらせの贈り物、匿名のメモ、パソコンに残された文書ファイル・・
なんの変哲もない日常が、何かを隠蔽している不気味な気配を帯び始め、じわじわとその濃さを増幅させていくのは何故なのか? 陰謀者による手の込んだ仕打ちなのか? 事もあろうに“私”の人生を脅かす目的は?
現実なのか妄執なのか、異様に亢進した意識が錯綜する悪夢の迷路を彷徨いながら、煩悶すればするほど、精神の深い裂け目に搦め取られ、抗えない破滅へと堕ちていく“私”。
ささやかな合図を送ってくるディテールによって、“私”を俯瞰している読者は気づくことになるのですが、陰謀者とは“私”の影、つまり、意識下の自分自身に他なりません。 抑圧した自我に復讐される自家撞着的ストーリーを、信用ならざる語り手小説の定法を踏まえて描いた玄妙なるサイコスリラー。 伏線や暗示を絶え間ない刺激として散りばめた設計図のように緻密な構築力。 非常に陰影に富んだ物語ですが、決して闇雲に弛緩することがありません。
セクハラとDVという大きな人倫の問題が表裏のように綾を成し、アメリカ社会のポリティカル・コレクトネスから感得した不安要因を極端に寓意化して体現した作品と言えるのかも。 また、アメリカのイギリス人というトランスアトランティックな主題も深く刻印されています。 因みに作者のラスダン自身もイギリス出身のアメリカ人なのだそうです。 本篇は2002年発表の初長篇。
特筆すべきは、様々な文学作品の水脈が注がれていて、ストーリーと意味ありげに共鳴反響している点。 カフカの「中年のひとり者ブルームウェルト」、シェイクスピアの「尺には尺を」、聖書正典から除外されたグノーシス派の福音書、そしてなによりエウリピデス作のギリシャ悲劇「バッコスの信女」は、本篇の通奏低音になっているようです。
解説で教えられなければ知る由もなかったのですが、この「バッコスの信女」を示唆する巧みな仕掛けが随所に施されており、テクストの彼方此方で符合を探す愉しみがあるのだとか。 原典を知らないのがつくづく残念です。 “私”がたどる自己崩壊の過程はペンテウスのそれをなぞっており、モチーフだけではなく、その中核に神話を抱え込んだ物語としての強靭さが感じられもします。
中世に流布した一角獣捕獲の神話を織ったクロイスターズ美術館の“一角獣のタペストリー”も、世界観の確立に欠かせない大きなウエイトを占めています。 角のエキスが持つ薬効作用のうちの同毒療法説に依るところの攻撃的で孤独な怪物としての一角獣像が“私”へと投影されてゆき、純化された毒素による自家中毒の痛みに襲われる末路まで制御が行き届き、呼び交わし合う詩と理知が、絶望の複雑な光沢を見事に現出させています。
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甘い蜜の部屋 / 森茉莉
甘い蜜の部屋
森 茉莉
筑摩書房 1996-12
(文庫)
★★★

浅嘉町の洋風建ての邸に暮らす裕福な実業家の牟礼林作とその娘の藻羅(モイラ)。 舐めても舐めても無くなることのない林作の愛情の蜜の壺に浸って生きるモイラは、そのぼんやりとした無意識の媚態であるところの気怠げな無関心、くねくねとした緩慢な動作、鈍く不透明な感情、ムウディイ(不機嫌)な情緒、貪婪を潜めた重い瞳、吸いつくような皮膚と燻り出る百合の香気で男たちを搦めとり、その肉体を灼き、精神を鈍らせる魔物だ。
鼻につくくらいの西欧(かぶれ)的な舞台美術に、折々古風な和が折衷されていて、近代日本のモダニズムを色濃く映しつつ、登場人物たちが気脈を通じ感応し合いながら内的波動だけで物語を満たしていく超俗性と、果実の汁や花の蜜を滴らせた艶美な幻想性が渦巻く芳醇な大正ロマネスクの世界。 無垢と残酷に彩られた物語性などは、ある種ガーリッシュ的な匂いを放っていて、少女小説の系譜と捉えてもあながち間違いではないのかも。
ウェストミンスタアの煙と薫香に包まれた、父と娘二人だけの緊密で純粋な閉じた世界、昏い“魔”を宿らせる“甘い蜜の部屋”の不可侵性は絶対的です。 でもそこに共依存的な破滅性はなく、もっと何か冷めた手触りなのです。 遊戯のような・・
森茉莉さん、アンソロジーで読んだ短篇エッセイ以外では初体験なのですが、赴くままに書き殴ったような洗練を全く感じさせない文章にたまげました。 有無を言わさず魅せてくる怒涛の粗放さと、過剰な言葉で圧してくるくどくどしさ・・ なんなんだ、この評価不能の文体は。 表面的な取り澄ましへのアンチテーゼとでも言わんばかり。 いや、ほんとにそうかどうかは知らないけど。
しかし70年代頃の文学ってのはやたらハイソで、ひっでぇ悪文だなぁーと思ったのが超名文だったりとか・・するんですよね。 わからないなりに、ひょっとして凄いんじゃないのか的な文章に翻弄される心地よさは確かにあったのです。 例えばこんな。
天上はモイラを実家に遣っている時に迎えに来たことはない。
因みにこれ、“来た”を“行った”にすれば普通の文章として成り立つのだが、双方向の意識が瞬時に広がる摩訶不思議なニュアンスを醸し出してしまう妙。 間然としているのに味があるとしか言いようがないのだ。
旧弊な美徳に対する作者の嫌厭が根底にあるのだろうか。 で、振り子の針が振り切れちゃって、もうなんか行くとこまで行っちゃいましたといった趣き。 モイラに投影されるファム・ファタル観には、なんとなくではあるけど、フランスの小説に出てくるアンニュイでガサツな小娘を思い浮かべたくなる雰囲気があって、少なくとも日本的な羞じらいの乙女観の対極に位置する資質を如実に発散させてるし、フランス古典なんかに見られそうな進歩的で背徳的で過激な恋愛思想へのリエゾンめいた匂いがムンムンするのは気のせいなのか。
モイラの虜に成り果てた男たちを悶え苦しませる執拗な描写は、靄のかかった想念世界を咽せるくらい濃密なものにしていくし、モイラを視姦するかのような男勝りな作者の目線は度肝を抜くし、餌食となった男たちの悩乱を養分に生育し、手の施しようのない魔物にねろねろとバージョンアップしていくモイラ像は、後半になるほど現実味を削ぎ落とし、感覚的にも理性的にも常人のキャパの範疇を超越して、その魔性をエスカレートさせていきます。
でも、モイラは作品なのだよね。 林作の芸術的創造物なのだ。 モイラの“闇”は深いのだが、やはりわたしが惹きつけられるのは林作なのです。 この小説を支配していたのは間違いなく彼だった。 自らの手でファム・ファタルを育て上げ、掌の中で自由に泳がせ、永遠に所有し賛美したいと欲し、魔獣を飼い慣らす調練師のような快楽を追求することに遊ぶ隠れデカダン男(真のドSとはこんな人なんじゃないかと思う)なのだが、下手するとマッド・サイエンティストに連想が及ぶ。 “モイラ”という響きもちょっと怪獣っぽいし^^; 換喩的なモンスター小説に見えなくもない。
そういう林作を犀利で品があって粋な、めちゃめちゃ格好いい紳士に描きながら、同時にゾッとするような嫌悪感の種火を伏線のように読者の心に植えつけていくのだ。 終局面でのそれとないぶっ返りは満を持した感があり、ラスト一行に収斂させるランディングが見事。
純粋なのかエゴなのか、開放なのか堕落なのか、神に為り済まさない者のそれなのか悪魔のそれなのか・・ 否定も肯定も受け流し、美しやかに妖しく漫然と蠢きながらも、選ばれし者のみが到達できる遊戯的境地の聖域から、“魔”の淵を覗いてごらんと凡民を教唆するようなサディステックな微笑を見え隠れさせた“魔の美学”小説。 底のわからぬものに触れた時の不安と好奇に恐ろしいほど駆り立てられてしまう・・
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法月綸太郎の本格ミステリ・アンソロジー / アンソロジー
法月綸太郎の
本格ミステリ・アンソロジー

アンソロジー
角川書店 2005-10
(文庫)
★★

[法月綸太郎 編] マニアには物足りないかも・・と仰ってますが、拡張型本格とでもいうべきジャンルの可能性を感じさせてくれるような。 本格コードに収まらないエスプリの効いた作品が多く、らしさが匂い立つセレクト。 個人的には大いに堪能させてもらいました。 ご自分の趣味を優先しつつ、意外に見落とされがちな短篇に光を当てることにも力を入れたとのこと。 総じて“語り=騙り”を機軸に据える本格観がそこはかとなく示されていた印象。
軽い肩ならし→密室トリック→犯人当て→異色風味と、テーマの異なる四つの章で構成されています。 辻真先さんの「仮題・中学殺人事件」の章立てに倣ってコンセプトを絞ったのだそうです。 手元の文庫新版を点検してみたら“おわかれしま章”がないので旧版を読んでみたくなってしまった。 関係ないけど;; 章間には“栞”と題された箸休めエッセイが三たび挟まれており、ハードボイルド風本格、密室短篇、海外クラシック・ベスト20、と、それぞれのテーマに沿ったオマケの作品紹介も楽しめます。
一つの方向へ釘づけにされた意識が、蓋然性と意外性を備えた全く別の発想の導入によって覆されるときの、爽快なまでの心地よい敗北感は、本格ミステリを読む醍醐味でありましょう。 法月さんが「はかりごと」を“本格スピリットの萌芽”と捉えた感覚に膝を打ちたくなった。 これがいわゆる“意表をつく着想” と“エレガントな解法”の端的な例なのかなと思わされる。
一番好きなのは「死とコンパス」。 本格ミステリのパロディなのだけど、無意味な対称と偏執狂的な反復を寄せ集めた館で××××る探偵というシンボリックな世界観が圧巻で、彼が、“個人的感情から離れた、ほとんど誰のものでもない悲哀を感じ”るところで痺れまくった。 後期クイーン問題を予言するようだ・・と解説されていて、自分は未だクイーンの後期作品を読んでないんですが、その何たるかの尻尾を掴んだ気になりました。 探偵(小説)が抱えるジレンマを物語に昇華し、優れた批評を内在させた作品。
この最終話と対をなすように配置されているトップバッターの「ミスター・ビッグ」も、(またちょっと違う意味で)本格(というよりハードボイルド)ミステリを形而上学的にアレンジしたパロディ。 高尚な哲学フィールドを弄り倒さんばかりのアイロニーが炸裂するバカバカしくも辛辣な一篇。
「偽患者の経歴」もよかった。 ノンフィクション・エッセイということなのだが、上質なサイコ・スリラーとしか思えない・・不謹慎かもしれないけど。 何が真で何が偽なのか? ラストの煙幕がまた素晴らしい。
「動機」は、乱歩が紹介したというお墨付きの超有名作らしいです。 案の定、全く知らず。 もう、タイトルそのままなんだけど、自分の中のノックスイメージを補完してくれるような拗れた作品。 これは記憶に残るわぁ。
あと、個人的には「密室 もうひとつのフェントン・ワース・ミステリー」がツボ。 稚気満々の密室ものパロディ。 しかし、ニヤニヤしながら読んでるとラストのメタ展開に撹乱され、いなされてしまう。 ん? え? 作者が小説内人物にこの小説を読ませてる・・のか??
常々読みたいと思っていた作家、クリスピンが入っていたのも嬉しかったです。 「誰がベイカーを殺したか?」はシリーズ探偵のジャーヴァス・フェン教授もの。 なぞなぞ感覚の引っ掛け問題で、“話し方自体が重要”なことと、“不適切な疑問の一例”であるという親切なヒントが与えられるため、難易度はそれほどでもないのだけど、きちんと張った伏線を理詰めで回収していく解法が鮮やかな佳篇。 英国のインテリ層が醸し出す雰囲気も美味。
中西智明さんに幻の短篇があったなんて知りませんでした。 「ひとりじゃ死ねない」は、読者への騙しと作中での謎解きが乖離しながら両立している技巧の美しさに惹かれる。 作品に関するコメント(というか注釈というか言い訳というか)が中西さんご本人から寄せられるというファンサービスも。 詭弁?なのかどうかもわからないくらい易々と説得されてしまった。 もしかして完璧主義者? ふふ。 戻ってきて欲しいな。

収録作品
ミスター・ビッグ / ウディ・アレン(伊藤典夫 訳)
はかりごと / 小泉八雲(田代三千稔 訳)
動機 / ロナルド・A・ノックス(深町眞理子 訳)
消えた美人スター / C・デイリー・キング(名和立行 訳)
密室 もうひとつのフェントン・ワース・ミステリー / ジョン・スラデック(越智道雄 訳)
白い殉教者 / 西村京太郎
ニック・ザ・ナイフ / エラリー・クイーン(黒田昌一 編訳)
誰がベイカーを殺したか? / エドマンド・クリスピン & ジェフリー・ブッシュ(望月和彦 訳)
ひとりじゃ死ねない / 中西智明
脱出経路 / レジナルド・ヒル(秋津知子 訳)
偽患者の経歴 / 大平健
死とコンパス / ホルヘ・ルイス・ボルヘス(牛島信明 訳)
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名探偵の証明 / 市川哲也
名探偵の証明
市川 哲也
東京創元社 2013-10
(単行本)


かつて一世を風靡した名探偵、屋敷啓次郎は、現在老境に差し掛かる身の上。 閑古鳥の鳴く探偵事務所に引きこもって開店休業状態の日々を送っている。 ラストチャンスと腹をくくり、引退をかけて事件解決に臨むべく、人里離れた資産家の別荘へ向かうと、そこには今をときめくアイドル探偵、蜜柑花子との対決が待っていた・・
鮎川哲也賞受賞作。 ベースは本格ミステリなのだけど、名探偵のその後を描いていて、おとぎ話で言うところの“めでたしめでたし”の先に続く、“幸せに暮らしましたとさ”の裏側を暴いて風刺するパロディ的な批評性を備えた物語。
日常世界の現実に照らし見て“ここが変だよ名探偵”的なタブーが探偵小説にはあるわけで、その一部をストーリーに取り入れて、名探偵を現実世界に整合させる試みがなされています。 メインの命題は“名探偵だって老いる”ですが、他にも(これはネタバレになるのかな? 一応伏字に)例えば「十割の確率で真相を暴く名探偵がいたら、挑戦するより殺害を企てる方がリスクが少ないと考える一定数の犯人がいても不思議じゃない」や「尋常でないほど献身的な警察協力者を必要とするがそんな都合のいい奴いるはずない」や「名探偵がいるから事件が起きると認識され犯罪の元凶として厄病神扱いされて然るべき」などもプロットに練りこまれ、 ツッコミ論理を多用して、人間ドラマ仕立ての物語をまとまりよく構築しているなぁと思いました。 オチがいいね。 あの皮肉で一本筋が通ったし、結末で評価が上がりました。
ただやっていることが目新しいかというとそうでもなく、探偵小説の世界と現実世界を整合させることができるかの問いかけ自体には、周回遅れのような今更感があります。 探偵は“神”か“人間”か、という命題には深遠な思索が伴いますが、それは1930年代の作家が抱いた切迫感や切実さでありましょう。 まぁだから、今やろうとしたらお遊びでもない限り陳腐な焼き回しになりかねず、逆に難易度の高いテーマと言えなくもないのかも。
でもライトでチープめな読み口が功を奏したというか、わりと健闘していたんじゃないかな? てか、心はハードボイルドだよね^^;
もはや地上に“神”の居場所はなく、“人間”となって苦悩したドルリー・レーンは輝きを失い、次世代型の探偵に国譲りをして退場した・・ことが全てを言い尽くしてると思う。 雌伏の時を経て地獄の辺土から浮上したドルリー・レーンの血を引く新本格の名探偵たちは、それこそ“超人的”にタフだし、酔狂だし、捻くれてるし、吹っ切ってるし。 現実社会に生きる素の人間とは一線を画す方向に道を切り拓いて枝葉を広げ細分化し、ニッチにディープに進化し続けたり、或いは不整合性を承知であえてギクシャクと現実世界に居座らせ続ける道をふてぶてしくも選んで奇妙な安定化を成し遂げたり・・ ある意味、“神”から“悪魔”へと変身を遂げたのではなかろうか。 個人的な願望かもしれないけど。
あっ、いや、“新本格へのレクイエム”的な内容だという噂を小耳に挟んだりもしてたのだけど、そこまでの挑発はないない。 そんな風に取られかねない節もあるにはあるのだけど。 むしろバブル絶頂期と現在の経済的な社会背景を、名探偵の栄華と凋落とに重ね合わせた趣向に近いような・・
しかしどうしてもその批評性の方に目が向き、肝心のミステリパートがくすんで見えてしまうのは惜しい。 あのどんでん返しは(勝手に侮ってたのもあって)引っかかるものを感じていたのに全く予想できず、しかも真犯人の動機がしっかりツッコミ論理にコミットしていて面白く読めたのだが、とはいえ、まだ本気が出てない気もするかなぁ。
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贖罪 / イアン・マキューアン
贖罪 上
贖罪 下
イアン マキューアン
新潮社 2008-02
(文庫)
★★★★

[小山太一 訳] 1935年夏。 ブルジョア邸宅の広大な庭の美しいバロックの噴水の前で、シノワズリーの壺を奪い合う若い男女。 姉セシーリアと使用人の息子ロビーの“無言劇”を窓辺から見つめているのはセシーリアの妹ブライオニー。 物書きを志す多感な13歳の少女だった。
眩しい陽光のもとで繰り広げられた光景を、一人前の作家になるための運命的な“啓示”として受け取った少女は、子供部屋の外で演じられる人生劇の舞台へ上がるための格好の物語をこしらえる衝動に駆り立てられていく。
一日の夜に訪れる破滅の予兆を微かに孕む緊張感の中で、秩序と調和に覆われた危うく濃密な時間が、絹のような滑らかさで流れていきます。
それは、子供らしい無邪気で残酷な破壊願望だったろうか、潔癖な正義感の中の自己陶酔だったろうか、大人たちに称賛されたいと欲する功名心だったろうか、抑圧した恋心の裏返しだったろうか、言葉を操り場を支配する恍惚だったろうか・・
想像が想像を呼び、邪推の色に染め上げられたストーリー。 ひとたび起動したプロセスは、少女の手の及ばない速さで不可逆的に動き出し、現実を乗っ取り、歪め、踏みにじり、恋人たちを無残に引き裂いたのです。
第二次大戦下、1940年のフランス、イギリスへと時代を移す下巻では、異様な高揚感と狂熱の去った後、砂を噛むような現実と向き合わざるを得ない、暗澹たる途方もない喪失の様が、戦争がもたらす破壊的な負のエネルギーと呼応するかのように描かれていきます。
これぞ小説のなせる技とばかりの凄絶なコントラストで、“あの日”とその後の戦時下の日々を対比して見せる筆致に心を鷲掴みにされました。 素晴らしかったです。
ここまで読み、読者には小説の構造に関わるある仕掛け(薄々感づいていたかもしれない)が明かされることに。 が、しかし、小説の本領は実はここから。
短い最終章、作家になる夢を実現させ、77歳となった晩年のブライオニーの手記として、あたかも補足のような体裁で描かれる1999年。 ここに最大の仕掛けが用意されているのですが・・
主題はメタフィクションに隠されていますが、ジャンルオーバーなところが魅力な作品です。 特にミステリ要素が強めで、真犯人は誰なのか? 或いは、どこまでが現実でどこまでが物語なのか? マキューアンは多視点構造を突く繊細な描写で、ミステリ作家のようにテクスト上に手掛かりを残していきます。 終盤あたりを読んでいて、そこはかとなくナボコフの「ロリータ」を想起させられました。 おぼろげながら意識の端に違和感が引っかかるように読者は誘導され、謎と秘密が主旋律で扱われ、極上のエンタメ小説を読む喜びもありました。 ただ、その謎と秘密の読み解きは一般のミステリよりずっと厄介です。
様々な作家や小説が俎上に乗せられているのも特徴的で、なかでもエリザベス・ボウエンは(間接的ではあるにせよ)カメオ出演まで果たしているのが心憎いです。
が、しかしなのです。 何度も言いますがこの小説はこんなもんではなくて。 愛と忘却の主題とは、それは一周回ってとりもなおさず、慣れ親しんだ“死と結婚の物語”への回帰なのかもしれないと、あわや和みかけてしまいそうな終幕の場の空気を演出させながら、語り手ブライオニーは恐ろしい毒を隠し持っているのではないのか?
小説を利用して現実世界に仕掛けようとしているある企みは、まるでデジャヴを見るかのよう。 確証のない思い込みのスパイラルではないか。 矛先をすり替えたに過ぎず、性懲りもなく同じ過ちを繰り返そうとしているではないか・・と。
疑い始めると、読者に打ち明けた虚構もあれば、打ち明けていない虚構もあるであろうテクストそのものの信憑性が大きく揺らぎ、違和感として微かに引っかかっていた事柄のあれこれが頭をもたげてくる。
そもそも小説として扱う以上、自分も含め実在の人物を“作中人物”として好きなように操ることのできる不遜さを出発点としているのだから、現実には贖罪も何もあったもんじゃない。 自己満足の権化でしょ?
ブライオニーの手記も、作家という生き物の性を担保とした開き直りとも取れる帰結を用意しているのだが、ことさらラストで述懐するまでもなく、当然ブライオニーは承知だったはず・・
ではなぜ、贖罪の物語を書こうとするのか? 罪滅ぼしをしたい思いがエスカレートしてしまったのか? 善人のふりして成し遂げたい意地悪のためなのか? そして自分の気持ちにどこまで自覚的なのか? 少なくともブライオニーの手記まで含めたマキューアンの「贖罪」というタイトルには何かもっと辛辣な響きがありそうなのだ。
一つ思ったのは、神たる視点を持つ作中作家の外側には、作中作家を操るマキューアンがいて、その外側に読者がいるということ。 読者だけが作家の絶対性を揺るがすことができる存在なのではないのか。 その読者に向けて、マキューアンから何かしらのメッセージか投げかけられているのは確かであり、一度や二度の読書で看破できるはずもないのだけれど、それでも無性に惹きつけられずにはいられない魅惑に満ちた作品でした。

<追記>
ロリータ」を想起させられたのは、実は謎解き趣味ばかりではなく、おそらく小説の狙いそのものがとても似ていたからなのだと気づきました。 早くも忘れかけていたのだけど「ロリータ、ロリータ、ロリータ」の感想を読み返して眼から鱗が。 まるで「ロリータ」へのオマージュのよう!
・・と見せかけて〜 かもしれない。 いやいやいやいや、わかった気になるのは危険;;
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