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心中への招待状 / 小林恭二
心中への招待状
−華麗なる恋愛死の世界−

小林 恭二
文藝春秋 2005-12
(新書)
★★★

[副題:華麗なる恋愛死の世界] 河竹黙阿弥の「三人吉三」を題材に江戸末期の世相風俗を紐解いた「悪への招待状」の姉妹エッセイ。 こちらは元禄大坂版で、テキストとなるのは近松門左衛門の「曽根崎心中」です。 古典を読むとき、自分自身不慣れなものだから、現代人の感覚で推し量って頓珍漢に賞賛したり批判したりしがちだし、まぁ、そういう勝手な読みも一つの咀嚼法ではあるのかもしれないけど、当時の人が吸っていた空気、時代背景や精神風土を理解した上でなければ味わえない醍醐味が間違いなくあるんですよね。
世話浄瑠璃の嚆矢にして心中物の元祖と言われる「曽根崎心中」に内在するカリスマ性を探り、独特な悲劇の型として日本文化に定着することとなった“心中”の本質に迫る本書は、現代人が心中物、延べては浄瑠璃、歌舞伎、古典文芸を賞玩するための助けになってくれる一冊。
ビギナーとしてはまず、死生観の違いを念頭に叩き込んでおかなければ始まりません。 死に対する恐怖感や絶望感や嫌悪感が今とは明らかに異なり、死が終わりではなく別の新たな始まりに近い時代だっだということを。 未曾有の商業的発展を遂げた元禄時代の大坂のルネサンス的気運の中で、恋人たちの人間性発露の手段として生まれ、喝采をもって受け入れられた心中は、“負け”の意識ではなく、むしろ“勝ち取る”意識だったと、小林恭二さんは繰り返し指摘しています。 人間讃歌的なイメージに近かったのかなぁ。 しかし時代が下り、徐々に元禄大坂的な心中の本質が見失われ、追い詰められた果ての哀れな窮死へとすり替わっていくことになるのだけど、その元凶を近松が(鈍感な観客のために?)創造した九平次というキャラクターに探るあたり、とても興味深かったです。
もう一つ。 “心中立”という行為がエスカレートした終着点が心中であり、正真正銘“恋する二人の究極の約束”だったことは語源を辿ってもわかるのですが、近松が心中物の最期の局面で必ず描いた修羅場には、まさにこの“高揚した恋の絶頂感”が仮託されていて、それは同時に新しい世界への通過儀礼でもあったはずなのに、後世その悉くがカットされ、心中が孕む荒々しいまでの能動性は失せ、打ちひしがれた者の末路としての悲哀が見せ場になっていく、という指摘もなされています。 死や自死に対する意識の変化を考えればやむを得ないのかなぁ。
心中における“遊女と町人”という一つのパターンについても、双方のバックグラウンドを検証することで、女性側のシビアな現実認識と男性側の未成熟なロマンチシズムの合致が、いかに心中と好相性であったかが浮き彫りにされています。
最終章では「心中大鑑」の事実関係に沿って、一大センセーションを巻き起こした現実の事件としての曽根崎心中のあらましが紹介され、これに著者の心理的脚色(情理分析)がピタリとはまり、それまでの論旨が手堅く補強され、すっかり説得されてしまいました。 巧者ですねぇ。
近松の原作でしか味わえなくなっているという冒頭のお初の“観音廻り”が、いかに重要なシーンであるか、十重二十重にめぐらされた隠喩の解説も堪能しました。 この時のお初がどんな外観だったか、近松の文脈や当時の風俗から考察されていたりもします。
幾つかのセンテンスが引用されているにすぎませんが、近松の詞章は漠然としていて意味がよくわからないのにうっとりしてしまうのです。 耳に心地よくて何度も何度も音読したくなる気持ちを止められない。 特に好きなのが、徳兵衛の男ぶりを描写した一節。
平野屋に春を重ねし雛男、一ッ成口桃の酒、柳の髪も徳々と、呼ばれて粋の名取川、今は手代と埋れ木の、生醤油の袖したたるき、恋の奴に荷はせて
うっかりしがちだけど、散文ではなく、あくまで“浄瑠璃の歌詞”なんですよね。 七五調の詩歌の世界。 当然ながら逐一解説してもらわなければ理解できないのですが、解説してもらってまたびっくり。 なんという掛詞や縁語の嵐! なんという自由度! 文法を超えて広がる詩情! プレモダンがハイパーモダンに見えてしまう感覚に近い興奮が。 読んでみたいなぁ、近松・・
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残酷な王と悲しみの王妃 / 中野京子
残酷な王と悲しみの王妃
中野 京子
集英社 2013-10
(文庫)
★★

十六世紀前半から十八世紀前半ごろまでのヨーロッパ各国の王族をめぐる“怖い世界史”といった趣きのエッセイで、メアリー・スチュアート、マルガリータ・テレサ、イワン雷帝とその七人の妃、ゾフィア・ドロテア、ヘンリー八世とアン・ブーリンなど、辿った人生や運命の分岐点を軸に五つのエピソードが紐解かれています。
幽閉され、首を刎ねられ、毒を盛られ、嬲られ、相次ぐ出産で非業の死を遂げる王妃たちと、非情な、獰猛な、無能な王たち・・ 読む前から想像される残酷さや容赦のなさが生々しく描かれていましたし、関連絵画(特に多くの肖像画)や家系図が掲載されているのでイメージが湧きやすく、ドラマチックだけど分析的な中野京子テイストの安定感を堪能しました。
大雑把に言ってヘンリー八世とカール五世とフランソワ一世が同時代な感じなのだね。 アン・ブーリンはここ。 で、一世代下って、エリザベス一世とフェリペ二世とカトリーヌ・ド・メディシスとイワン雷帝(織田信長も)がだいたい一緒。 メアリー・スチュアートと雷帝の妃たちはここ。
で、更に3〜4世代下ってレオポルト一世とルイ十四世が同時代。 ちょい後でジョージ一世もまぁ同時代。 マルガリータ・テレサとゾフィア・ドロテアはこの辺り。
蜘蛛の巣のように張り巡らされたヨーロッパ王室の婚姻線には今更ながら眩暈を覚えます。 メアリー・スチュアートの父の従姉妹がエリザベス一世、そのエリザベス一世の両親がヘンリー八世とアン・ブーリン。 メアリー・スチュアートの息子ジェームズ一世の孫がハノーヴァー選帝侯に嫁いだゾフィで、その息子ジョージ一世の妃がゾフィア・ドロテア(この二人の孫がフリードリヒ大王だったりする)。
ちなみにマルガリータ・テレサが嫁いだ神聖ローマ皇帝レオポルト一世が3度目の結婚で得た息子カール六世はマリア・テレジアの父(マリー・アントワネットの祖父)、マルガリータ・テレサの異母姉がルイ十四世妃のマリー・テレーズ・・と、登場人物たちは各章をまたいで網の目の一端を否応なくチラつかせています。
メアリー・スチュアートとアン・ブーリンのエピソードは幾分既知だったというのもあって、一番印象に残ったのはマルガリータ・テレサでした。 「ラス・メニーナス」への思い入れが強いせいもあるかも。 ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」は、ルーヴル美術館のマルガリータ・テレサ像にインスパイアされて生まれた作品だったんですね。
王族の結婚は外交上の重要な切り札であり、格の問題、宗派の問題・・と、婚姻関係を結べる相手が極めて限られていたため、ヨーロッパの王族全般に血族結婚が蔓延していたようなのだけど、その影響が最も顕著だったのがスペイン・ハプスブルク家・・であることは、以前中野京子さんに教えていただいたのだ。
ベラスケスの「ラス・メニーナス」を眺めていると、王朝の暗い予兆、昔日の栄華が幼少期のマルガリータ・テレサの愛くるしい顔に刻印されているような気持ちが湧いてきて、ざわざわとした感情が胸に迫るようになってしまった。
伯父と姪の結婚で生まれ、自身も叔父に嫁ぎ、血を濃縮させる連鎖に余儀なく組み込まれ、二十一歳で4度身ごもり一女を残すも、王子を産んで王朝を繋ぐ王妃の使命を果たせず力尽き、4度目のお産で命を落とした儚いマルガリータ・テレサ。 それでも当たりくじといっていいレオポルト一世との結婚生活は決して不幸なものではなかったのではないかと想像されもする。 彼女の心の声は何も残っていないのに、史料が明かす無機的な味気なさの奥に眠るとてつもない感触を一気に引き寄せてしまう絵の力を思わずにいられない。 バッカス的饗宴が繰り広げられたという結婚披露宴で、芝居の衣装を身に纏って微笑むマルガリータ・テレサとレオポルト一世を描いたヤン・トーマスの夢のように煙る絵が胸に残った。
ルネサンスも宗教改革も直接には影響しなかった“非ヨーロッパ的田舎国”だったというイワン雷帝時代のロシアは、五つの章の中で唯一孤立している感があります。 おかげでヨーロッパ的な血族結婚の闇は免れているのだけれど、廷臣の娘を娶るという手段を取るしかなかったため、王妃の座をめぐって貴族間の熾烈な争いが起こり、宮廷の其処此処で奸計がめぐらされ、王は次々に妃を失い、自らの命をも絶えず内側から脅かされる緊張状態に身を晒していたという。 神経のどこかを麻痺させなければ生きていけなかった背景が生んだ怪物であるかのような原初的な絶対君主の姿は、身の毛もよだつと同時に哀れを誘うものがありました。
イワン雷帝はエリベス一世に良さげな嫁いたらくれませんか的な手紙を送りつけて盛んにアピってたみたいなのだけど、いいようにあしらわれっぱなしだったらしいw そんなイングランドもヨーロッパの中では辺境の後進国で、フランスの洗練された宮廷文化には憧れと嫉妬の相半ばする根強いコンプレックスを抱いていたのだから複雑だ。
短い間ではあったけどフランス王妃だったことのあるメアリー・スチュアートの華麗で優雅な身のこなしにエリザベス一世が燃やした対抗心や、フランスの宮廷に仕えたアン・ブーリンのエスプリに富んだ社交遊戯の手練手管に夢中になったヘンリー八世には共通項が見出せそうです。
妃のゾフィア・ドロテアを北ドイツの古城に通算三十二年間幽閉したジョージ一世は、実にイングランド歴代国王の中でダントツの嫌われ者らしい。 ヘンリー八世やイワン雷帝のような過渡期、黎明期の暴君的荒々しさではなく、地味〜にクズっぷりが最強なのだ。 面白いのはこの時期、優秀な首相ウォルポールがやる気のない王に代わって国を統治し、“ウォルポールの平和”と讃えられた長期安定政権を実現させていること。 皮肉にもイングランドの立憲君主制が確固たるものとなった時代なのだから歴史って面白い。
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どうぶつたちの贈り物 / アンソロジー
どうぶつたちの贈り物
アンソロジー
PHP研究所 2016-01
(単行本)


ペンネームに“動物”を隠し持った5人の作家たちが、それぞれの“動物”をテーマに書き下ろした短篇が集まりました。 “隠し持つ”ですから分解もアリなんですか。 こんな意味不明すぎるコンセプトならではの競演というほかない面々が並んでいる。 誰得?みたいなアンソロジーですが、思わず読みたくなってしまいました。
順に馬、兎、鹿、鶏、羊モチーフとなります。 白河三兎さんと似鳥鶏さんが初見です。 総じてティーン向け風味かな。 何かしらミステリがあり、瑞々しさが印象的ですが、分野や個性の違いが集うと、それぞれが濃ゆく映りますね。
「馬の耳に殺人」は、ファンタジックなミステリ。 東川作品はメインシーンの映像喚起力が高いんだよなぁ。 漢字がちょっぴり苦手な安楽椅子探偵さん。 最後のおまけのオチが可愛かった。 漢字ネタを入れてくるところがふるってます。 東川さんにしては推測に頼りすぎな気もしましたが、今回はまぁ、人智を超えた(?)名探偵なので、これもアリってことで 笑
「幸運の足跡を追って」は探偵譚風の成長物語。 日本人とフランス人の思考の差を上手く素材にして描いている。 思春期の息遣いが切々と感じられ、ほろ苦く心に染みる作品でした。
「キョンちゃん」は、自己発見のプロセスを詩的に描いた作品かなぁというイメージ。 大学生男子の恋愛トークもの・・と思って読んでいて、比喩が比喩ではなくなってるような不思議な世界に生きてる鹿系男子と通常男子の会話の齟齬から誘発されて見えてくる現代社会の生き辛さに思いを向けていたら、この物語自体が恋愛の壮大な比喩だったのか!? みたいな。 ラスト一気に甘美な世界へ連れ去られた。
「蹴る鶏の夏休み」は、回想ものではないのに、どこか不思議とノスタルジックな青春ミステリ。 “鶏”のほかに、もう一種、“鳥”モチーフが扱われています。 こうでなくてはいけませんよね♪ ほのかに「スタンド・バイ・ミー」チックな眩しさを感じました。
「黒子羊はどこへ」は、一番読みたかったし一番引き込まれました。 西洋の御伽話のような小川洋子さんならではの世界に、久しぶりに耽ってしまった。 物哀しさと悦びと幾ばくかの可笑しみが溶け合い、おずおずとしながら勇敢で、密やかで果てしなく、ひんやりとして甘美。 生は死の一部だということをふと思う。 “人生という物語”を祝福しているかのような物語でした。

収録作品
馬の耳に殺人 / 東川篤哉
幸運の足跡を追って / 白河三兎
キョンちゃん / 鹿島田真希
蹴る鶏の夏休み / 似鳥鶏
黒子羊はどこへ /小川洋子
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