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謎解き「嵐が丘」 / 廣野由美子
謎解き「嵐が丘」
廣野 由美子
松籟社 2015-12
(単行本)
★★★★

今更ですが「嵐が丘」ってこういう話だったんだ・・と^^; どこに焦点を当てたらいいのか、漠とした魅力にどう向き合っていいのかわからず、なんと薄っぺらな読みしかしていなかったことか。 「嵐が丘」が秘める謎の数々に様々な角度から光を当て、本質に迫る謎解きが試みられています。 先行文献を紐解きつつ、オリジナルな切り口から新しい読みの可能性を提示した学術研究の書。 はじめに批評史の概略が紹介されているのですが、その夥さと統一性のなさこそが「嵐が丘」の本質をなにより物語っているのだということが読み終えてみて納得できました。
伏線、省略、隠喩、暗示・・ 不可解な描写にも手掛かり(らしきもの)が無数にあり、また、第一世代と第二世代の物語は人物とその関係性、時間、プロセス、状況、出来事、性質に至るまで、あらゆる面でとことんコントラストとシンメトリーを追求して構成されており、その緻密さに度肝を抜かれます。 テクストを検証していく丹念な作業へと読者を駆り立てて止まない、こんなにまでの誘引力を内在させた物語だったのかと。 その認識にすら辿り着けていなかったです。 未解決のまま収束していないキャサリン一世とヒースクリフの第一世代物語が、キャサリン二世とヘアトンの第二世代物語の最中もその奥でずっと静かに継続していたんですね。 第二世代物語をヒースクリフが演出した第一世代の歪な再現劇であると位置づけた解釈には目からウロコが。 弱さの報いとしての罰、そこからの解放と再生を、道徳や聖書の範疇では捉えられない、むしろ裏返しの禁断の思想で描いた作品として心に焼きつきました。
ヒースクリフはキャサリン一世のドッペルゲンガーであるとするテーマを神学的な解釈と重ね合わせてみると非常に興味深くて。 神学的には“一人の人間(ヒースクリフ)の絶対者(神)になろうとした許されざる者(キャサリン一世)の物語”という神への冒涜、つまり楽園からの追放というミルトン的テーマの系譜と読み解けるのだけど、そう考えると、この由緒正しいキリスト教観を踏襲し是認せず、反転させてしまうことになるのだよね。 ドッペルゲンガーにおける“主体”を“絶対者=神”に見立てようとすると、俗世という悪魔の誘惑に負け、ヒースクリフの絶対者となる(影を主体の中へ完全に取り込む)ことに背を向けた結果としての主体と影の分離(絶対者とは言えない状態)によって“怪物ヒースクリフが創造された”という真逆の解釈ができてしまい、そうなるとエミリーはキャサリン一世がヒースクリフの神になることを“許されざる罪”として描いていないことになってしまうという。
現世で迷妄する期間(エドガーとの婚約以降)と、死霊となってヒースクリフ(の迷妄からの覚醒)を待ちながら一人荒野を流離う期間は、まるで“荒野放浪”の聖書的モチーフなのだけど、神の御座します天国から離脱したキャサリン一世にとっての祝福の地は他ならぬ荒野なのであって、試練の末にヒースクリフとの“永遠の魂の合一”を果たした後も荒野(大自然)と一体化しそこに留ることこそが彼女の信仰だったわけで。 キリスト教的天国の存在を抜きにして完結する死生観を肯定的に描いているといっても過言ではないのだけれど、このアミニズム的な死生観はまさしくキリスト教と分かちがたく共存してきたケルトのそれ。 ケルトにおける荒野が霊魂不滅の場であり、転生へと通じる場であることを考えると、タナトス的に映るキャサリン一世とヒースクリフのゴールは荒野ではなく、もしかするとその先の復活を見据えたものであったのかもしれない。 復活の先の夢物語を第二世代に託したのかなぁ。 キャサリン二世とヘアトンがキリスト教的安寧を象徴するスラッシュクロス屋敷へ移り住み、キャサリン一世とヒースクリフの幽霊がプリミティブな土俗的エネルギーを象徴する嵐が丘屋敷に棲みつくことを暗示させるラスト。 コントラストとシンメトリーが見事な着地を見せて幕を閉じていたんですねぇ。
肉体の牢獄から解放されなければ到達できない魂の自由への希求を第一世代物語で描きながら、大人へと健やかに成長していく生者の幸せの形を第二世代物語で示し、逆のベクトルをも全く否定していません。 でもエミリーの心は第一世代の二人に寄り添っていたのだろうな・・と、現世で実らなかった自らの恋の物語だったかもしれないことを知ってからは、一層その思いを強くしました。 エミリーこそがキャサリン一世であり、ヒースクリフであったのかもしれないと。
作家のペルソナを反映しない語り手構造(しかも二重という念の入れよう)も然ることながら、背徳的なゴシック小説風、あるいは穏健な少女小説風といった雰囲気を意図して作り出し、そこに独自の思想性を擬態のように紛れ込ませカモフラージュしている節が見受けられ、底深さの底が見えない混沌とした魔力を感じさせる小説だという確かな手応えを得て、ますます好きになった。
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エドウィン・マルハウス / スティーヴン・ミルハウザー
エドウィン・マルハウス
−あるアメリカ作家の生と死−

スティーヴン ミルハウザー
白水社 2003-08
(単行本)
★★★★★

[副題:あるアメリカ作家の生と死][岸本佐知子 訳] 1972年に出版された処女作。 行き過ぎた理想追求がカタストロフに至るという道筋を描かせたら真似のできない絶佳な眺望を見せてくれるミルハウザーの面目躍如な小説だと思う。 前衛性とエンターテイメント性を兼ね備えた構築力、加えて執拗なまでにフォーカスされた細部、鮮烈な詩趣・・ ミルハウザーを読む愉楽の全てが詰まっていて、創作活力の奔流を感じました。
本書は、11歳でこの世を去ったエドウィン・マルハウスなる天才作家の作品と生涯を、観察者として影のように付き従った同い年の友人ジェフリー・カートライトなる伝記作家が、エドウィンの死の直後に執筆した評伝作品(正確には絶版後に再刊された復刻版)という体裁をとった小説。
作家が子供ならその伝記作家も子供。 設定からしてぶっ飛んでいるのだけど、0歳の初対面時から始まる(およそ人間の手には余るほどの)克明な述懐といい、いかにも伝記作家調のインテリジェンスで流麗な(およそ子供の手には余るほどの)文体といい、その完璧さゆえの露骨な奇っ怪さがなんとも人を喰っているという他ない。 いわゆる伝記のパロディであり、辛辣な模倣であり、批評性を有した一種の風刺文学なのかもしれないし、そう思わせたいという(風刺文学の)パロディなのかもしれない。
常時進行中の説明されない何かで絶えず読者を惑わしながら、虚妄に満ちた端正なテクストに潜む不吉な亀裂を徐々に押し開け、隠された戦慄の鎌首をもたげさせる・・ その手腕が尋常でない。 巻頭のエピグラフ、“ふう! 伝記作家って、悪魔だな。ーーE・M・(談)”のコミカルで悲愴な一文が本小説の全貌を物語っているかのよう。 出口のない熱いランプシェードの中で狂ったように舞い惑う一頭の蛾を恍惚と見つめるジェフリーと、そっと目を逸すエドウィンの像が脳裡に明滅しています・・
創造物と創造者の関係を、作家とその伝記作家の関係に擬えて皮肉り、伝記文学の存在意義に波紋を投げかける・・といったメインストリームがあるにしても、ジェフリーだって後に伝記文学作品を残した一作家としてウォルター・ローガン・ホワイトなる研究者(復刻版の序文を書いている)によって論評される側になるのだし、ジェフリーや復刻版の序文の書き手だってミルハウザーの手の内にあるのだし、そのミルハウザーだって、分析され研究され評伝が書かれるのだよね。 作家と伝記作家による堂々巡りのいたちごっこには、追跡テーマの妙味を感得することもできてしまう。
遊びへの情熱は誰にも負けないひ弱な少年エドウィンが残した長篇小説『まんが』。 アニメ映画の技法を下敷きに独特の視覚と言語感覚を駆使するスタイルで真実をチープさの中に見出そうとした彼の最高傑作はどのようにして生まれたのか。 隠された運命の意図を見つけるべく、ジェフリーの手で天才作家としてのエドウィンの人生が紐解かれ、精神史がかたち作られていきます。 意味の付着しない音を最上の玩具とした前言語期、一つの言葉を覚える毎に味わった世界創造の喜び、文字の形状や語呂合わせへの愛好、漫画や写真や映写機が彼の文学芸術に与えた暗示・・エトセトラエトセトラ。
真面目なアナウンサーがなんでもない日常の光景を劇的に実況して笑いを誘うテレビ番組を見たことがあるけど、ジェフリーのエドウィン分析にはアレに通ずる可笑しみがひたひたと底流しているものの、感心してしまうのはその鮮やかな説得力。 真に迫った一流の評伝っぷりなのだ。 ミルハウザーは本気で遊んでやがるのです。 ひょっとするとエドウィンのモデルはミルハウザーその人なのかもしれないと不意に思ったり。 だからこんなにまで真実味を帯びてしまうのではないかと。 また、本小説のアレゴリーになっている作中作の『まんが』に対するジェフリーの言及には、ミルハウザーが本小説に対して言及しているのではないかと思えるような叙述トリックめいた言説の揺らぎがあり、エドウィンとジェフリーは次元を隔てたミルハウザーと得体の知れないやり取りをしているみたいなところがあるのです。 二重三重に幻惑する複眼的で重層的な露出が、内と外の裏返りの感覚を誘発し、眩暈を誘うのです。
『まんが』のラスト、あの予知(?)に鳥肌が立ちました。 実は普通の少年なんじゃないかと思えたりもするエドウィンは、やっぱり天才だったのかな? って。 あるいはエドウィン(それに復刻版の序文の書き手)の実在性を疑い、ジェフリーの狂気の淵をどこまでも探りたくなったり。 でもそうなるともはやジェフリーとミルハウザーはイコールで結ばれ、ジェフリーは狂人のふりをした小説家ということになってしまうし・・ あー、もう眩暈が;; 叙情的に読むならば、大人になろうとするエドウィンと、彼を子供の世界に封印しようとするジェフリーの精神が、突破の際で交錯し、結晶化するクライマックスシーンが白眉。
水彩絵の具のスケッチのように瑞々しい叙景として広がるコネチカット州の長閑な田舎町ニューフィールド。 終わりのない狂熱が繰り返される子供の王国で、エドウィンのイマジネーションを左右した(と称する)エピソードの数々が時代の美風とともに香り高く活写されています。 叩きつけ合うような関係の中に繊細な交感があり、傷つく瞬間が手に取るようにわかり、プリミティブな残酷さに締めつけられるような郷愁を掻き立てられる。 子供ならではのイレギュラーな関心ごとや無関心ごと、家庭や学校での教育風景、そこに立ち見て触れて感じた小さな自然や社会、空間の隅々までをも埋め尽くすほどに稠密に過剰に羅列され氾濫するお菓子とそのオマケ、玩具、漫画、絵本、遊び、雑貨、ガラクタ・・ 二十世紀半ば、現代アメリカの青春期をニューイングランド南部に生きた少年のリアルが煌めく粒子のように瞬く玉手箱のような作品。 忘れられない一冊になりました。
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