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教えたくなる名短篇 / アンソロジー
教えたくなる名短篇
アンソロジー
筑摩書房 2014-06
(文庫)


[北村薫・宮部みゆき 編] 北村薫さんと宮部みゆきさんが珠玉の短篇を持ち寄って編んだ“名短篇シリーズ”、初読みです。 本編は一番最近の一冊。13篇収録で、巻末にお二人の対談も付載されています。
個性の強い作品が多め。 読み慣れず、とっつき難さもあったのですが、でも、ここを入口と思いたい。 以下、お気に入りをメモ。
「青い手紙」は、都市伝説風味の作品で、「謎の物語」に収録されていた「謎のカード」の元ネタらしい。 話のど真ん中に底の見えない暗い穴がぽっかり空いてるようなリドル・ストーリー。 作者の前フリは物語の一部なのか、そうじゃないのか、メタ的な揺さぶりも魅力です。 「謎のカード」は残念ながら忘れてしまってるんだけど、最近読んだ「物語の魔の物語」所収の「牛の首」に近しいものを感じます。
「人間でないことがばれて出て行く女の置き手紙」は、いろんな民話で同工異曲が見受けられるシチュエーションだけど、ほとんど数センテンスで済まされてしまうんじゃないかというシーンをクローズアップしてくれたのが嬉しい!楽しい! と思った。 出だしが“おまえさんへ”で始まるので、無意識のうちに「昔話」かと思いきや、読み進めるうちにわかるんだけど、なんと「現代日常ベース」のお話! 一気にシュールになるんです。
「ほんもの」は、漂う皮肉とペーソスが素晴らしかった。 旧時代の類型と新時代の芸術が相性最悪なのは火を見るより明らかであることを若い画家の目線で端的に描いていて、目のつけどころも洞察力も感服してしまう。
「蛇踊り」は、ほろ苦いショートショート。 青春の光から影へ「叙述トリック」で鮮やかに暗転させるオチが見事。
「ささやかな平家物語」は、歴史ロマン随想の佳篇でした。 平家が関門海峡で滅びなければならなかった理由から出発し、夢想は優雅に羽ばたきます。 平家とコンスタンチノープルのコムネノス家の運命がシンクロし、平家一行の黄泉の国巡りの遍歴がラングスドルフ艦長との邂逅を呼び・・ やがて翼はたたまれ、机上の一点へと収束させる運びの美しさよ。
よくわからなかった作品もお二人の解説が助けになり、読み直して再認識。 「焼かれた魚」なんてまさにそれ! 「音もなく降る雪、秘密の雪」も再読の方がはるかに沁みた。 一番もやもやしていた「荒涼のベンチ」は宮部さんの読解が腑に落ちました。
コンラッド・エイケンは今のところほとんど邦訳がないようですし、長谷川修は時代に埋もれてしまっていたとのこと。 名篇を掘り起こしてくださる作業の尊さを思う・・

収録作品
【第一部】
青い手紙 / アルバート・ペイスン・ターヒューン(各務三郎 訳)
人間でないことがばれて出て行く女の置き手紙 / 蜂飼耳
親しくしていただいている(と自分が思っている)編集者に宛てた、借金申し込みの手紙 / 角田光代
手紙嫌い / 若竹七海
【第二部】
カルタ遊び / アントン・パヴロヴィチ・チェーホフ(松下裕 訳)
すごろく将棋の勝負 / プロスペル・メリメ(杉捷夫 訳)
【第三部】
ほんもの / ヘンリー・ジェイムズ(行方昭夫 訳)
荒涼のベンチ / ヘンリー・ジェイムズ(大津栄一郎 訳)
【第四部】
蛇踊り / コーリー・フォード(竹内俊夫 訳)
焼かれた魚 / 小熊秀雄
音もなく降る雪、秘密の雪 / コンラッド・エイケン(野崎孝 訳)
【第五部】
舞踏会の手帖 / 長谷川修
ささやかな平家物語 / 長谷川修
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ルチアさん / 高楼方子
ルチアさん
高楼 方子
フレーベル館 2003-05
(単行本)


[出久根育 装画] 鬱蒼とした庭にゆらゆらとすみれ色の空気が立ち込める“たそがれ屋敷”。 ずいぶん昔のこと、そこに美しく儚げな奥様と、ふたりの娘スゥとルゥルゥと、ふたりのお手伝いさんが暮らしていました。 ある日、新しいお手伝いのルチアさんがやってきます。 丸いからだを弾ませ、ハミングしているようにフンフン鼻息を立てながら元気いっぱいに働くルチアさん。 “気の毒”なルチアさんは、なぜか気の毒から一番遠いところにいるように見えます。 不平や愚痴や噂話や執着と無縁であると同時に、特別に何かを愛するということもないルチアさんの前では、誰もが心にしまった輝くような思いを表に出してみたくなるのです。
外国航路の船に乗るお父様がお土産に持って帰った異国の光る水色の玉。 そのスゥとルゥルゥの宝物にルチアさんはそっくりです。 姉妹にだけは彼女が水色に光って見えるのでした。
“どこか”のために“ここ”を忘れるか、“ここ”のために“どこか”を忘れるか、“ここ”か“どこか”の何かが満ち足りないか・・ そんな状態が世の常、人の常、生きることの定めみたいなものかもしれない。 “ここ”と“どこか”がひとつになり得て自足しているルチアさんは、なんとも不思議で稀有な存在に思えます。 おいそれと人が辿り着けないような手の届かない境地。 それこそ水色の光る実でも食べない限り。
ルチアさんの生き方を感じ、考えるボビーの明哲さや、それによって自己を再発見するスゥの柔軟さに、やはり現実としては最も近くありたいと願う読者は多いのではなかろうか。 肯定的に“ここ”に居ながら憧れの“どこか”を静かに思う・・ それが小市民な自分にとっての理想の限界かなぁって。 ちょっと諦観気味の大人の心をも切なく揺さぶる効用があるのですが、子どもの頃に読んでいたらどんな受けとめ方をしたのだろうかと、その想像が上手くできなくて。 自分がルチアさんのきらきらに気づけないタイプの子どもだったからかもしれないのだけどね。 ちょっと、一抹の寂しさを味わったりもして。
生き方の物語なのだけど、生き方をどう感じどう考えるか(ルチアさんを触媒に)促される物語でした。 そしてその感じ方や考え方もまた一つの生き方なのだと。
光る水色の玉と実は、“どこか遠くのきらきらしたところ”の象徴として物語に鮮やかなイメージを吹き込みます。 ターコイズやアマゾナイトを連想したくなるのと、出久根育さんの仄かに装飾性を意識した絵のせいか、エキゾチックで神秘的な香りがひとしおなのです。 調べてみたら水色の石って色々あるんですね。 パライバトルマリン、ステラエスペランサ、ヘミモルファイト、ラリマー・・ みんなキレイ! 水色の実って全然思い浮かばなかったんだけど、ノブドウや、熟し途中の青葛、クサギの実あたりがそれっぽいかも♪
光る水色の実のシロップ漬けを広口瓶からひとつ取り出して水の入ったガラスのコップにぽとんと落とし、くるくるかき混ぜて出来上がる透きとおった輝く水色の液体。 魔女? 聖女? 真夜中の台所で水色の実の光るジュースをこしらえるルチアさんと、その様子を窓の外の暗闇から慄きと憧れの瞳で息を呑んで見つめる子どもたちの光景がえもいわれません。
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エウラリア 鏡の迷宮 / パオラ・カプリオーロ
エウラリア 鏡の迷宮
パオラ カプリオーロ
白水社 1993-06
(単行本)


[村松真理子 訳] 日本では(現時点で)この一冊しか紹介されていないイタリア人女性作家の短篇集。 1988年に発表された作者26歳の処女作品集で、四つの短篇が収められている。
“幻や想像の世界に現実以上のものを見てしまった人間の悲劇がダマスク織りのように紡ぎ出される”との紹介文があって、この“ダマスク織り”ってワードチョイスがなんともしっくり嵌る。 典麗で繊細優美でシルキーで・・っていうのもあるんだけど、パターン化された模様がひと連なりに織り出されていく感じなんか特に。 四篇は同工異曲というべき相似形を成して響き合っているのだ。
瑞々しく美しい綺想に彩られた愛と孤独の物語。 どの短篇の背景もヨーロッパのどこか・・という以外に時間も場所もつかみ難いのだけど、今よりもっと古くもっと緑の濃い旧世界の記憶がこもる空間イメージ。 眼裏に残る映像の強さも特徴的で、古譚や伝説風のロマン派チックなモチーフに既視感があり、またその寓意性にも馴染みがある。
神の遊戯のごとき運命に殉じていくようでありながら、主人公たちの行動の秘かな動機には、自己同一性の揺らぎ、確固とした拠りどころの不在に倦む現代的な病理がかかわっていて、リアリティとメルヘンが内側と外側から照らし合うような趣きをそなえている。
豪華な馬車の内部で空間を無限に広げている鏡の部屋、死者のために何世紀にも渡って造られてきた地底の荘厳な彫刻庭園、巨大な影法師の囚人がヴァイオリンを奏でる閉ざされた監獄など、生の無常を体現する地上世界から隔てられ、切り離されて完結し自足している夢幻境のような反世界が物語の対位旋律となって死や不変を象徴している。
実体と影、静と動、聖と俗、刹那と永遠・・ 両者の呼び交わしはその間に横たわる目に見えない淵の深さを裏書きするばかり。 未だ見ぬ魂の故郷のような、かつて一体だったかもしれない失ってしまった自己との安定的合一を願う衝動のような恋慕の情が悩ましく充満している。 そして、その虜となった人たちの渦巻く想念を燃え立たせている。
テーマは変奏しながら反復するのだが、表題作の「エウラリア 鏡の迷宮」は虚実の錯綜から浮かび上がる真実性への問いを、「石の女」は、死から逆照射される生の意味を、表裏を成す「巨人」と「ルイーザへの手紙」は自我の分裂の問題に関わる分身小説的な側面をより強く感じたような。
どこにも属せない疎外感や途方もない遮断はひとえに不毛で、なんら救いを提示することのない虚しさが茫漠と漂うオープンエンド。 ややメランコリーにもたれかかり過ぎかなという節はあるのだけど、そのため殺伐感はなく、非情さと無垢が綾を成し、襞を成して揺れ動く織物のような世界がどこまでも甘美なのだ。
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夢巻 / 田丸雅智
夢巻
田丸 雅智
出版芸術社 2014-03
(単行本)


星新一、江坂遊の系譜に連なる新時代ショートショートの旗手として注目されている作家さん。 初作品集ということもあって筆が若いです。 でも、ここからどんな風にグレードアップしていくのかなってのはちょっと気になります。
オフビートでキレッキレな感じを想像していた自分の好みとは違ったんだけど、いや、確かにそういう要素もあるんだけど、どちらかというとロマンあり、郷愁あり・・ みたいな叙情性優位な方向かな。 アイデアストーリーの“アイデア”はいいもの持ってる感が伝わってきて、このシュール&ナンセンスの連打はとっても楽しかったです。
ただ“ストーリー”が物足りないのは如何ともし難く。 オチにさほど重きを置かないポリシーなのかもだけど、いきなりショートショートのオチなし余韻ものはハードル高かろうに。 頑張って欲しいけど。 洒落た不思議な世界観を味わう奇想集といった趣きだったと思う。
「蜻蛉玉」「綿雲堂」「岬守り」「星を探して」「夢巻」などの優美な感動系ファンタジーよりも、「妻の力」「大根侍」「白メガネの男」辺りに食指が動きました。 「妻の力」は、いわゆる“ダラ奥”に依存してしまう夫心理を星の一生や宇宙の成り立ちに託けて描いてるのだけど、これが結構なるほど感あって良かったのだ 笑 剣士の仇討ちストーリーの定型を踏みながら、肝心の刀が大根という「大根侍」は、こちら側の住人とあちら側の住人との間の論点のズレ、噛み合わない会話が可笑しみを誘う系で、この“刀と大根”のように有機物と無機物、あるいは違う素材同士を混同することで生じるチグハグさの趣向はかなり多かったと思う。 こちら側の住人があちら側の立派な伝道師になってしまう展開のしらばっくれたユーモア感覚が「大根侍」は絶妙だった。 「白メガネの男」は、ニヤッとしたくなるようなブラックユーモアがそこはかとなく漂うところが好き。
あとがきでも触れておられた通り、日常のあるあるネタやふとした疑問に触発されたと見受けられる作品が多いです。 リモコンっていつもなくなるよな・・は「リモコン」へ。 これ、ラストのオマケみたいな謎かけ問答ネタにクスッとなりました。 寝ぼけた時のミミズののたくったような字って奇妙だよな・・は「みみずの大地」へ。 これ、落語の「あたま山」チックなオチが悪くなかった。 飲み会終わった出入り口付近で、あれ?あいつがいない・・は「白石」へ。 このシュールさはゾクっとする。 「文字」は中身のない文字が増殖していく社会への警鐘と思いきや、新しいステップへの華麗な進化にズコーってなりました。
また、あちら側の住人である友人や先輩や同僚の言動、生き様の奇怪さや突飛さが理解できないこちら側の主人公という構図において、その一人称の主人公が作者本人の投影とおぼしきケースが多々あり、そこから仄かな都市伝説風味が生まれているのも特徴的と言えるかもしれません。
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バーデンバーデンの夏 / レオニード・ツィプキン
バーデン・バーデンの夏
レオニード ツィプキン
新潮社 2008-05
(単行本)
★★★

[沼野恭子 訳] レオニード・ツィプキンはソ連時代を生きたユダヤ系ロシア人作家。 と言っても本業は病理学者だそうで、地下出版の非公式文学とは距離を置いていたため、発表するあてもないまま、ただ純粋に文学を愛する気持ちで詩や小説を書いていたという。 民族迫害や恐怖政治に蹂躙された過去、そして現在が、悪夢のように重ね重ねのし掛かってくる生涯に、駆け足のプロフィール紹介を読んだだけで胸がざわついてしまった。 皮膚の下に隠し持つ悲しみと痛みは、作品に取り払えない影をひっそりと落としている。
70年代後半に執筆された本作品は、海外出版の可能性を託されたジャーナリストの友人とともに海を渡ることになった。 1982年、ニューヨークのロシア語週刊誌で雑誌連載が開始されたとの朗報に接することはできたのだが、ツィプキンが56歳の生涯を閉じたのはその矢先のことだった。 連載後、英訳版が出版されるに至るも、当時は注目されず埋もれてしまった本作を、ロンドンの神保町と言われるチャリング・クロス街の書店で古本の山の中から“発掘”したのがかのスーザン・ソンタグ。 本書には「バーデンバーデンの夏」本篇に加え、2001年の再販本にソンタグが寄せたエッセイ「ドストエフスキーを愛するということ」が付載されている。 揺蕩うような流離うような心の旅の物語。 熱く静かな耀きを秘めた“意識の流れ文学”の佳品だ。
冬のある日、モスクワ発レニングラード行きの列車に乗った“私”は、横揺れの激しい車内で頼りなく明滅するランプの下、一冊の古い本を開き、読み始める。 それは、ドストエフスキーの二度目の妻アンナの日記だった。 ツィプキン自身の限りない投影である語り手“私”が綴る自伝と、文豪ドストエフスキーの評伝が縒り合わさり、徐々に溶け合うような構成がベースとなっている。
時折ふと我に返り、雪に覆われた車窓やその白い覆いを透かして滲む停車駅の様子などに目を留めつつ、またいつの間にか“私”の心は本の中へ、およそ百年前の世界へと沈潜していく。 新婚のドストエフスキー夫妻がペテルブルグをたち、ドレスデンやバーデンバーデンやバーゼルで過ごした一夏へと。
ドストエフスキー夫妻の物語は “私”の想念として鮮やかに写実される。 史料に忠実でありながら、その空白部分を“私”のイマジネーションで補強した思索世界だ。 現在の冬と過去の夏、ソビエト体制下とロシア革命以前を行きつ戻りつ列車に揺られる“私”はやがて、暗い記憶が吹き溜まる凍てつく冬のレニングラードへ到着する。 同時にそこはかつてドストエフスキーが暮らし、彼の小説の登場人物たちが闊歩したペテルブルグでもある。
衝動に突き動かされるように大通りや路地に点在するゆかりの場所を巡り歩く“私”の、さながら聖地巡礼の旅の終着点は、ドストエフスキーが最晩年に移り住んだクズネーチヌィ横町の角のアパート、現在のドストエフスキー博物館であった。 頭上の壁にラファエロの「サン・シストの聖母」の複製画が飾られた書斎の端の革張りのソファーで息を引き取った文豪の、その臨終の数刻へと思いを馳せるのである。 アンナを媒介者に、彼女の眼を通して。
小説の趣向は、ヨーロッパ滞在経験を綴ったドストエフスキーの著書「冬に記す夏の印象」へのさり気ない目配せのようであるし、ドイツの保養地バーデンバーデン滞在中のセクションは、その直前作「賭博者」のもう一つの物語であるかのようにも感じられるし、バーゼル美術館での一幕には次回作「白痴」への大いなる予祝が込められてもいるのだ。
ドストエフスキー夫妻の物語は、“私”の思索世界で繰り広げられており、目線は常にアンナを介した“私”であるため、小説内の現実と連続的で共時的な関係を保ち、小説全体が現在と過去という単純な二元構造では表現できない朦朧とした流動性をそなえている。 また、直線的な物語とは違い、ドストエフスキーの作品論をはじめ、ツルゲーネフやプーシキンとの関係性や、現代ロシアの文学動向への言及などを射程に入れているため、時制や場や語られる対象が目まぐるしく移り変わる。 しかしそれらは評論のための評論ではなく、ドストエフスキーを見つめる姿勢の中から自然に生まれた情熱の露として作中に溶け出しているように思えた。
ドストエフスキーはなぜ反ユダヤ主義者だったのか? それはツィプキンの遣る瀬無い、狂おしい問いである。 この煩悶が、憂いが、心の傷が作品を生み出す母胎になっていたのは間違いないのだろう。 小説の中ではあれほど他人の苦しみに敏感で、辱められ傷つけられた人たちを熱烈に擁護しながら、偏見に凝り固まってユダヤ人を罵倒する、その自己矛盾に気づかないドストエフスキーに代わって、自身はユダヤ人でありながら、ユダヤ人を嫌うドストエフスキーに惹かれてやまない“私”の自己矛盾を曝け出し、精神の呼応を乞い願い、対話を呼びかけている。 その想いは躊躇いがちに満ち引きを繰り返し、やがて自己の片割れを渇仰するアンドロギュノス的な恋情さえ想起させるほどに昂まっていく。 憎しみを愛で浄化しようとするかのような激情が苦悩と陶酔を同時にもたらし、キリキリと切ない。
夫婦の性愛に仮託される他者との共鳴を“海を泳ぐ”、自身の深部への探求を“山を登る”と表現し、横と縦の二つの意識を対象化させている点が興味深く、究極的には、ツィプキン自身とドストエフスキーとの“魂の交感”の可能性と、“魂の深淵”を突き抜ける死の瞬間への関心、この二つが大きなテーマを成していたのではないかと感じた。 しかしながら答えは夢想に委ねるほかにすべはなく、辿り着ける場所もない。 可能性を可能性のまま永久に持ち続けるのが人間の真実であるのだと、開かないドアの存在を一番よくわかっているのは“私”なのだと・・ そんな物憂い吐息が聞こえてくる。 雪煙の中に濃密な気配となってこもる熾火のような命の芯の、その火照りが、とても美しく思えた。
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自薦THEどんでん返し / アンソロジー
自薦 THE どんでん返し
アンソロジー
双葉社 2016-05
(文庫)


著者セレクトで集められた“どんでん返し”をテーマとするアンソロジー。 押しも押されぬ作家さんが集結していて、その分既読も多かったのですが、伏線を拾いながら騙しのテクニックを辿る楽しみがあり、再読に堪える短篇ばかりでした。
謎解きだけではなく、程よくノンミステリもブレンドされたラインナップです。 ノンミスの方はホラーやSFやノワールなど、奇妙な味のリミックス感があり、何気にバランスも考慮されていたのかも知れない。
驚き重視の派手派手しいどんでん返しというよりは、小粒だけどピリッと引き締まった巧妙な作品が揃っています。 何をもって一級品のどんでん返しとするか、自薦だけにそれぞれの作家さんの美学が垣間見えて楽しい。 わりと昔の作品が多かったような。 ※以下、若干のネタバレ感があるので一部伏せ字にしてあります※
一番のお気に入りは「再生」でした。 笑かされた。 このセンス好きすぎる。 純愛系のエモい語り、からのぉ〜、あの落差ですよ。 タイトルに相応しいどんでん返しの面目躍如と思いました。 そして誰もがこの一言で突っ込みたくなること請け合いです。 せーの、「そっちかい!」(笑) でもこれ、ラストのオチがなかったらなかったで、ある種、文芸作品かも知れないと思った。
「書く機械」は、編集者と作家の生態をパロった軽妙洒脱な怪作で、ブラックユーモア的な風刺画になっています。 有栖川さんの原稿を受け取った編集者さんも、これには苦笑いだったんじゃないかな。
「アリバイ・ジ・アンビバレンス」は、推理談義から真相を導き出す理詰めの純謎解きもの。 皮肉な逆転劇は地味に唸ってしまう。 これまた、そっちなのか! と先入観を覆させるタイトルが巧い。 しかしジュブナイル調の青春ミステリなテンポと、扱う素材のエグさのギャップが印象に残りますね。
「蝶番の問題」も安楽椅子探偵ものです。 既読のはず。 吉祥院探偵の連作は好きだったんです。 確か迷探偵だったと記憶してるんだけど、この一篇に関しては名探偵。 作中作の「叙述トリック」とラストの切り返しと二粒美味しい軽快な作品。
「カニバリズム小論」は、法月倫太郎シリーズの短篇で「信用ならざる語り手」もの。 動機にかかわる心理戦で、ミステリというよりもノワールで洗練された雰囲気があり、らしいエスプリ感が楽しめます。 ただ法月倫太郎視点の短篇群に混ざってこそ異彩を放つアイデアなので、短篇集「法月倫太郎の冒険」で読む方が味わい深いかも。
「藤枝邸の完全なる密室」は烏賊川市シリーズの短篇。 これもまたダブルミーニングなタイトルが秀逸です。 密室を扱った倒叙ミステリ。 完全犯罪を目論むダメダメ犯人vs食わせ者の鵜飼探偵ですからね。 皮肉なオチのナンセンス感が最高でした!

収録作品
再生 / 綾辻行人
書く機械 / 有栖川有栖
アリバイ・ジ・アンビバレンス / 西澤保彦
蝶番の問題 / 貫井徳郎
カニバリズム小論 / 法月綸太郎
藤枝邸の完全なる密室 / 東川篤哉
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懐かしいラヴ・ストーリーズ / アンソロジー
懐かしいラヴ・ストーリーズ
アンソロジー
平凡社 2006-12
(単行本)


[中村妙子 編訳] イギリス(とアイルランド)の女性作家7人による“愛の物語”の競演。 原作の初出が二十世紀半ばから80年代頃とおぼしき短篇群で、小説の舞台も概ね同年代。 “ちょっと古めかしく、どことなく昔懐かしい感じ”のセレクションです。 そして都会もの、カントリーもの、どちらの作品からも由緒正しさや上品さが豊かに香っています。
中村妙子さんというと、わたしとしては児童文学とクリスティーのイメージなのだけど、本アンソロジーにも採られているロザムンド・ピルチャーやミス・リードといった作家さんの翻訳にも心血を注いでいらっしゃったんですね。 特にこのお二人の「ララ」と「ドクター・ベイリーの最後の戦い」は、善性への信頼が厚く底流していて、やさぐれた心に沁みて沁みて。
“田園作家”と称されるリード。 本編収録の「ドクター・ベイリーの最後の戦い」は、コーンウォールに実在する村をモデルにしたスラッシュグリーン村に暮らす住人たちの日常を描いたシリーズの中の一篇らしい。 あとからあとからじわじわと涙が滲んでしまうデトックスな佳品。 ただ今回は抄訳だったのだよね。 完訳版、それに種々他篇も収められた連作短篇集「スラッシュグリーンのたたかい」をぜひ読んでみたい。 「ララ」の清く正しく美しいベタさも大事。 ララの内面描写がないことがこの小説を輝かせていたのだろうなぁ。 そろそろぼちぼち一周回って正しい本に心洗われたいお年頃なのかもです。
しかし、まだまだやはり「雪あらし」もよかった! ハッピーエンドに限りない疑問符が打たれているかのような心理小説っぽさ、夢オチの最後を描かなかったみたいなこの感覚・・堪らないです。 セアラは一体どこから泡沫の夢の世界に滑り込んだんだろうと考えると、二人で暮らした部屋のドアを開けた時? その下宿の玄関ドアを開けた時? 昔馴染みの道に入った時? と遡って、やっぱり自分が“スノーボールの中にいる女の子”だと感じた刹那に行き着く気がしてならないのだ。
「マウント荘の不審な出来事」は、ヴィクトリア朝風のご婦人を若干おちょくり気味に、でも基本は温かい眼差しで描いていて、ユーモアのセンスが絶妙。 戦争の傷跡が重たく垂れ込めた時代の昏い熱気が遣る瀬なく漂う「もう一度、キスをして」は、もう・・タイトルが切なすぎる。 このワンフレーズのチョイスに痺れてしまう。 セッティングは古風なんだけどテーマがどこか現代的で、唯一ラヴ・ストーリーという括りでは捉えきれないものを感じたのが「砂の城」。 子供が大人になるための日々の経験値のなんでもないような(けれど確かな)断片、その一瞬をさっと捉えて逃すことなく描破する感性が凄まじくて、苦しいほどのノスタルジーに締めつけられました。

収録作品
雪あらし / ジーン・スタッブズ
マウント荘の不審な出来事 / ジュディー・ガーディナー
愛だけでは… / ステラ・ホワイトロー
ララ / ロザムンド・ピルチャー
もう一度、キスをして / ダフネ・デュ・モーリア
ドクター・ベイリーの最後の戦い(抄訳) / ミス・リード
砂の城 / メアリ・ラヴィン
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