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巨匠とマルガリータ / ミハイル・A・ブルガーコフ
巨匠とマルガリータ
ミハイル A ブルガーコフ
河出書房新社 2008-04
(単行本)
★★★

[水野忠夫 訳][池澤夏樹=個人編集] 旧ソ連公認の文学史から一度は抹殺されてしまうも、スターリン死後の“雪解け”の時代に再評価の一歩が始まり、徐々にその機運が高まって、特にペレストロイカ時代以降の歴史の見直しの過程で研究が進み、今や完全復活を果たした作家ブルガーコフの代表作。 しかし名誉回復を知らないまま、本人は1940年に四十八歳で亡くなっています。 特に晩年は不遇をかこち、そんな中で活字になる当てもなく本作は書き続けられたという。
熱い春の日の夕暮れどき、悪魔一味がモスクワに降臨し、大パニックを引き起こします。 文学雑誌の編集長との神の有無をめぐる議論に始まり、アパートの一室を乗っ取って住み着いては満月の悪魔集会を開いたり、黒魔術の見世物興行で舞台に出演しては劇場中にルーブル札の雨を降らせたり・・ それはもうエスカレートするわするわ^^; さながらドタバタ狂詩曲の様相とでも申しましょうか。 SFとメルヘンとロマネスクが渾然一体となったような映像喚起力のあるスペクタクルな幻想性と、端役の隅々に至るまで(むしろ端役なればこそ?)のキャラクターの生きのよさが絶品。
粛清の吹き荒れた恐怖の時代のモスクワが悪魔によってコケ威され、翻弄され、嘲笑される小気味良さには、ある種痛快なものがあり、同時代に生きながらのこの発想の放胆さ、不敵さに拍手喝采を送りたくなります。
モスクワの住宅問題、外貨隠匿行為やその発覚への強迫観念、不適切分子の精神病棟送りなど、1930年代の冬の時代真っ只中のモスクワの社会状況のあれこれが、辛辣な皮肉とユーモアでグロテスクなまでに活写されているのですが、主題となっているのは共産主義の根本に関わる無神論の問題だったでしょう。
無神論が共産主義社会の機能不全を引き起こしている大きな要因であると著者は告発しています。 人間は人間の理性を過信してはいけないのだと。 無神論を敵に回しては人知を超えた存在同士、神と悪魔は一蓮托生というか、高次元で止揚されてしまうのだよね。 そんな顛末が新鮮で面白かったのだけど、月報で池澤夏樹さんが、ブルガーコフは人間の善性を信じて失敗進行中の共産主義を目の当たりにしている今更、神に頼るわけにもいかないから悪魔に頼ったのだと分析されていて、これは至言!とちょっと笑ってしまった。
本作品のもう一つの軸を成すのが、当局サイドに阻まれて“傑作”の発表が叶わない作家の“巨匠”と、彼を支える愛人のマルガリータ。 ローマ総督ポンティウス・ピラトゥスを主人公に据えて執筆した、二千年前のエルサレムにおけるナザレの人ヨシュアの磔刑にまつわる物語がキリスト賛美とみなされ、“巨匠”は編集者や批評家の執拗な攻撃を受け、精神を病み、自らの小説を火に焚べて燃やしてしまいます。 マルガリータの無心の愛が(悪魔に届き)“巨匠”とその作品を救ったように、きっとブルガーコフの晩年は妻エレーナの支えがあればこそだったのだろうな。 ブルガーコフ自身と妻エレーナが“巨匠”と“マルガリータ”に投影されていたことが察せられます。 しかもタイトルから想像するに、本作は二人の愛の結晶と言っても言い過ぎじゃない気さえしてきます。 ブルガーコフとその作品の復権の陰にはエレーナの奮闘があったという。 本作はまさに愛の力によって忘却の灰の中からよみがえったのであり、作中の悪魔の名セリフ“原稿は燃えない”を自ら証明してしまうとはなんとも魔術的で伝説的ではないか。
臆病であることの罪深さを神にも悪魔にも繰り返し説かせながらも、反体制の烙印を押されることに怯え、声を上げたくても上げられない人たちの真摯な心の葛藤に対しては同情的であり、二千年間さまよった煉獄からのポンティウス・ピラトゥスの救済というかたちでその意思が表明されていたと思います。
それでも、現実世界はにべもなく眼前に横たわり。 ソヴィエト時代の権力機構の中で生きていかざるを得ない人々の逞しさと哀愁が滲むエピローグ。 ポンティウス・ピラトゥスの苦悩は時代を超えてイワンに引き継がれた感があるのですが、イワンには同時に“巨匠”の最期を見届けた弟子としてのマタイ像がおぼろげながら重ねられているようにも思え、迎合するくらいなら詩人であることを辞める道を選択したイワンへの眼差しは決して冷たくないし、献身的な妻の存在は、もしかしたらたった一人の読者を得る日がいつか来るかもしれない可能性を否定するものではなかったんじゃないかと思えたりもして。 未来へ託されたささやかな福音の感触をいつまでも反芻したくなる余韻深い読後感なのです。
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盆の国 / スケラッコ
盆の国
スケラッコ
リイド社 2016-07
(単行本)


お盆を繰り返す町で巻き起こるエンドレスサマーストーリー!
お祭り、夕立、花火、恋… いろんな夏が詰まってる。

お盆に帰ってくるご先祖さまの姿が見える女の子・秋。
会えないはずの人たちに、もう一度会える楽しい季節。
このままずっとお盆だったらいいのに…
ふと頭に浮かんだ妄想は、なぜか現実になってしまう。
同じ一日を繰り返す町の中で出会った謎の青年・夏夫と、
誰も知らない不思議な冒険がはじまる。
京都、お盆、夏・・ 懐かしい匂いが立ちのぼる和風ファンタジー。 日常ベースで静かに進むのかな? と思いきや、結構スペクタクルな展開ありで、しっかり1つの長篇物語になっていました。 とぼけた柔らかい絵が独特の情緒を醸し出していたと思う。
“シジミ”って、最初何かと思ったよ。 しかも柄なのね 可愛い♪
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現代語で読む「江戸怪談」傑作選 / 堤邦彦 編訳
現代語で読む「江戸怪談」傑作選
堤 邦彦 編訳
祥伝社 2008-07
(新書)


主に江戸時代に編まれた冊子を出典とする怪談選集。 具体的には『平仮名本 因果物語』、『諸国百物語』、『御伽婢子』、『新御伽婢子』、『耳嚢』、『奇異雑談集』、『新著聞集』、『宿直草』などから三十数篇が採られています。 実録と創作のあわいを縫うような聞き語り調の素朴な話が多く、現代語に訳されると少しばかり味気なく感じてしまう部分はあるのですが、逆にいつか原文でチャレンジしたいなぁと、そういう気持ちを芽生えさせてくれる本でもありました。
第一章は女性の嫉妬、第二章は名家の没落縁起、第三章は哀しい愛のかたち、第四章は異界と接する時空間、第五章は悪業の報い・・と、五つのテーマに分けられ、各章末にはテーマに沿った論考がまとめられていて、各話ごとのルーツや系譜をめぐる補足も親切。 解説パートが非常に充実しており、怪談文芸の豊かな地下水脈の一端に触れることができました。
民話や巷説にオリジナルが加わり、類話のヴァリエーションが生まれていく展開というのは想像に難くないのですが、こと怪談に関しては仏教説話の影響力が非常に大きかったようですね。 仏教説話に用いられた題材が典拠となって、そこから俗伝が広がり、民談化していくというケースが大きな一つの流れになっていたらしい。 “愛”という概念が肯定的に扱われず、むしろ人間の罪深い本性とみなされていた前近代の宗教道徳観を内在させているからこそ、江戸怪談が物語る恋路の闇はこんなにも息苦しく、もの狂おしいのでしょうねぇ。
自然の世界に根ざす神霊の成れの果てが妖怪なのに対して、幽霊や怨霊といった類いはこの世に何かしらの未練を残し、あるいは悪しき生き様を引きずって成仏できない人間の魂魄に由来します。 本書のほとんどは後者にまつわる怪異と言えます。 情念や業の深さや因果の渦巻く“うらめしや”の境地。 「疫神を助けた男」は前者っぽいというか、ちょっと毛色が違う気がしたんですが、実はこれがお気に入りだったりする^^;
浄瑠璃の「播州皿屋敷」を江戸の講釈師の馬場文耕が牛込御門内の番町に舞台を置き換えアレンジしたという「番町皿屋敷」は繰り返される祟りの連鎖を伏線としていて、もっとも読み応えある肉づけがなされていた一篇。 最後にお菊の成仏という宗教色を付与したことにより、江戸の寺々でお菊鎮魂の縁起伝承が生まれたそうで、「番町皿屋敷」がメジャーになった一因はその辺りにもあるみたいです。
あと有名どころでは、中国古典に拠りながら、舞台を室町時代の京に改変した浅井了意の「牡丹の灯籠」と、ラフカディオ・ハーンの「耳なし芳一」の原話となった「平家怨霊と琵琶法師」が入っています。 この二篇の幻想性は別格で、やはり一番好きだなぁ。
女霊のあさましさが強調される第一章の中で、落語の「三年目」を典拠とする「破約の果てに」は、恐怖を笑いに転ずる江戸人の心意気が光った一篇。 また、首をはねられた家来の報仇譚「最後の一念」に一捻り加えた頓智ストーリーがラフカディオ・ハーンの「かけひき」だし、夏目漱石や内田百聞も題材にしている「こんな晩」系の怨霊転生譚「切腹の朝」の笑話ヴァリエーションが落語の「もう半分」といった類縁関係も喚起させられて面白い。 一つの話型として比較することで原話パターンからの逸脱の糸口が見えてきて一段と興味深さが増すものですね。
人気の高いモチーフであるらしい旅の尼僧をめぐる奇怪な懺悔譚として、明治の講談師、松林伯円の「死者の手首」が紹介されており、杉浦日向子さんの『百物語』の中の「尼君ざんげの話」と同一素材であることが指摘されていたり、道成寺伝説の流れを汲む「女人蛇体」や、比良八荒伝説に連なる「湖を渡る女」、また、井原西鶴作品も「草むす廃墟」と「三十七羽の恨み」の二篇が採り上げられています。
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『罪と罰』を読まない / 岸本佐知子×三浦しをん×吉田篤弘×吉田浩美
『罪と罰』を読まない
岸本 佐知子×三浦 しをん×吉田 篤弘×吉田 浩美
文藝春秋 2015-12
(単行本)


ドストエフスキーの名作「罪と罰」を読まずに語り倒してしまおうという、大胆不敵とも云うべき読書会への誘い。 とある宴席の片隅で膝を突き合わせ、嬉々として語らう四人が目に浮かぶようでニマニマしてしまいます。 まぁしかし時間の無駄、ナンセンス、役に立たないという贅沢さを究めた知的遊戯であると同時に、読んだだけで満足し、良しとするようなある種の権威主義に一石を投じる、なかなかにパンチの効いた企画とも捉えることができそう。
名作ゆえに“読んだことはないけれどなんとなく知ってる”各々の情報を寄せ集めて、そこから話の筋や作者の意図や登場人物の思いを探り当て、「罪と罰」がどんな物語なのか推理していくというのが基本スタイル。 “読んだことはあるけれどよく覚えていない”側の自分にも充分に参戦の余地があることを恥じ入ればいいのか喜べばいいのか;;
岸本佐知子さんと吉田浩美さんのフライング情報や、既読編集者の立会人干渉があるので、実はそこそこナビゲートされちゃってるし、自由奔放というほどではない・・というかそれは流石に憚られるのか。 でもやり過ぎたらやり過ぎたで逆に白々しくなってしまっていたかもしれないし難しいところだなぁ。 ひょっとすると企画そのものが創作なのか? と捻くれた小説読みの性でついつい勘繰ってしまう部分もクラフト・エヴィング絡みなだけに(笑)なきにしもあらずだったものの、ぐいぐい牽引する三浦さんの妄想力の逞しさ、岸本さんの茶々入れ、浩美さんの軌道修正、篤弘さんの気づきを促す示唆など、それとなく絶妙にチームワークが発揮されていて、本気の遊び心が実に生き生きと伝わってきました。
終章はちゃんと答え合わせというか、締め括りの読後座談会が設けられています。 投げ技のかけ逃げではありませんのでご安心を。 斬新かつマニアックな切り口で「罪と罰」を紐解くこの辺りの見事なお手並みも、しかしセンスある書評と言ってしまえばそれまでなのですが、ここまで熱烈に引き込まれるのは未読座談会が利いているからに他ならないのです。
捨てキャラについて延々と論じていたことが発覚したり、想像の遥か上をいくキャラのぶっ飛びぶりに大興奮したり。 個人的にツボだったのはSMとの親和性の指摘。 「バーデンバーデンの夏」を読んだばかりの身としては、その鋭さにハッとさせられるものがありました。 また、みなさんが異口同音スヴィドリガイロフで盛り上がってるというのに、スヴィドリガイロフの存在なんか記憶すらない自分の残念さに身悶えしたり。 ラスコーリニコフとスヴィドリガイロフが表裏を成すように暗示されているのが「罪と罰」の醍醐味らしいではないですか(泣)
お世辞ではなく本心から読み返したくてムズムズとワクワクの高揚感が止まりません。 読んだら終わりというわけではないのと同じように、読まないうちから始まっている・・ そんな読書の在り方、小説との付き合い方の提言に、なにかこの上なくシンパシーを感じてしまいました。 本書の試みが、物語に触れることの根源的な喜びを意識する契機になってくれたことに間違いはありません。
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翻訳できない世界のことば / エラ・フランシス・サンダース 文/絵
翻訳できない世界のことば
エラ フランシス サンダース
創元社 2016-04
(単行本)


[前田まゆみ 訳] 世界の様々な言語から、英語に直訳することのできない単語(名詞、動詞、形容詞)が集められている。 こんな本、初めて。 世界中の誰もがきっと共有できる感動なのに、まだあまり光を当てられていなかった素材ではなかろうか?
メジャーな言語から、絶滅の危機にある言語まで、感情や行為や状況や程度などを表す固有の単語が52種チョイスされていて、それぞれの言語圏(国や民族)ならではの単語が生まれたバックボーンを垣間見ることができるし、その微妙なニュアンスには奥行きと広がりがあり、どことなく、とっても詩的な趣きがある。
あるあるだなぁと思ったのがハワイ語の“AKIHI”という名詞。 “だれかに道を教えてもらい、歩き始めたとたん、教わったばかりの方向を忘れてしまうこと”なんだって。 広い解釈で使われてそうだけど、そんな様子を言い表すワードが存在してるなんて、おおらかな人々なのかなぁ。
あと同じく、めっちゃ身につまされると思ったのがイディッシュ語の“TREPVERTER”という名詞。 “あとになって思いうかんだ当意即妙な言葉の返し方”なのだとか。 わたしのために日本語も作って欲しい・・
逆に不思議な気持ちを抱いたのが、ワギマン語の“MURR-MA”という動詞。 “足だけを使って水の中で何かを探す”の意だそうで、触れられる探し物だけではなく触れられない観念的な探し物にも使えるみたいなので、比喩的な表現なのだろうけど、どんな文化や生活スタイルを培ってきたんだろう・・と、遠い国の人々(オーストラリア先住民)の暮らしに想いを馳せたくなった。
あと、ある単位を表すその土地独自の言い回しも興味深くて、例えばフィンランド語の“PORONKUSEMA”という名詞は、“休憩なしで疲れず移動できる距離”を表し、実際には約7.5kmほどの意味合いで使われているのだけど、これはトナカイ基準で生まれた言葉らしい。
あまり喋りすぎても興醒めなのでこれくらいにしようと思うけどもう一つだけ。 日本語から四語もピックアップしてくれてて、ちょっと嬉しくなった。 その中の一語はなんと“積ん読”。 となると、他の国の単語にも“積ん読”風の造語が混ざってるのかもね。 流石に言葉遊びまでは伝わらないだろうけど、言い得て妙感はきっと異国の人々に共有してもらえるはず(笑)
たとえ一対一で直訳でき得る単語でさえも、付随する意味のズレが双方の単語の狭間で細波のように揺らめいているもの。 言葉の境界を越えるという行為は、実はなんてエキセントリックで繊細な体験なんだろうと改めて思う。
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