現代語で読む「江戸怪談」傑作選 / 堤邦彦 編訳
主に江戸時代に編まれた冊子を出典とする怪談選集。 具体的には『平仮名本 因果物語』、『諸国百物語』、『御伽婢子』、『新御伽婢子』、『耳嚢』、『奇異雑談集』、『新著聞集』、『宿直草』などから三十数篇が採られています。 実録と創作のあわいを縫うような聞き語り調の素朴な話が多く、現代語に訳されると少しばかり味気なく感じてしまう部分はあるのですが、逆にいつか原文でチャレンジしたいなぁと、そういう気持ちを芽生えさせてくれる本でもありました。
第一章は女性の嫉妬、第二章は名家の没落縁起、第三章は哀しい愛のかたち、第四章は異界と接する時空間、第五章は悪業の報い・・と、五つのテーマに分けられ、各章末にはテーマに沿った論考がまとめられていて、各話ごとのルーツや系譜をめぐる補足も親切。 解説パートが非常に充実しており、怪談文芸の豊かな地下水脈の一端に触れることができました。 民話や巷説にオリジナルが加わり、類話のヴァリエーションが生まれていく展開というのは想像に難くないのですが、こと怪談に関しては仏教説話の影響力が非常に大きかったようですね。 仏教説話に用いられた題材が典拠となって、そこから俗伝が広がり、民談化していくというケースが大きな一つの流れになっていたらしい。 “愛”という概念が肯定的に扱われず、むしろ人間の罪深い本性とみなされていた前近代の宗教道徳観を内在させているからこそ、江戸怪談が物語る恋路の闇はこんなにも息苦しく、もの狂おしいのでしょうねぇ。
自然の世界に根ざす神霊の成れの果てが妖怪なのに対して、幽霊や怨霊といった類いはこの世に何かしらの未練を残し、あるいは悪しき生き様を引きずって成仏できない人間の魂魄に由来します。 本書のほとんどは後者にまつわる怪異と言えます。 情念や業の深さや因果の渦巻く“うらめしや”の境地。 「疫神を助けた男」は前者っぽいというか、ちょっと毛色が違う気がしたんですが、実はこれがお気に入りだったりする^^;
浄瑠璃の「播州皿屋敷」を江戸の講釈師の馬場文耕が牛込御門内の番町に舞台を置き換えアレンジしたという「番町皿屋敷」は繰り返される祟りの連鎖を伏線としていて、もっとも読み応えある肉づけがなされていた一篇。 最後にお菊の成仏という宗教色を付与したことにより、江戸の寺々でお菊鎮魂の縁起伝承が生まれたそうで、「番町皿屋敷」がメジャーになった一因はその辺りにもあるみたいです。
あと有名どころでは、中国古典に拠りながら、舞台を室町時代の京に改変した浅井了意の「牡丹の灯籠」と、ラフカディオ・ハーンの「耳なし芳一」の原話となった「平家怨霊と琵琶法師」が入っています。 この二篇の幻想性は別格で、やはり一番好きだなぁ。
女霊のあさましさが強調される第一章の中で、落語の「三年目」を典拠とする「破約の果てに」は、恐怖を笑いに転ずる江戸人の心意気が光った一篇。 また、首をはねられた家来の報仇譚「最後の一念」に一捻り加えた頓智ストーリーがラフカディオ・ハーンの「かけひき」だし、夏目漱石や内田百聞も題材にしている「こんな晩」系の怨霊転生譚「切腹の朝」の笑話ヴァリエーションが落語の「もう半分」といった類縁関係も喚起させられて面白い。 一つの話型として比較することで原話パターンからの逸脱の糸口が見えてきて一段と興味深さが増すものですね。
人気の高いモチーフであるらしい旅の尼僧をめぐる奇怪な懺悔譚として、明治の講談師、松林伯円の「死者の手首」が紹介されており、杉浦日向子さんの『百物語』の中の「尼君ざんげの話」と同一素材であることが指摘されていたり、道成寺伝説の流れを汲む「女人蛇体」や、比良八荒伝説に連なる「湖を渡る女」、また、井原西鶴作品も「草むす廃墟」と「三十七羽の恨み」の二篇が採り上げられています。


現代語で読む「江戸怪談」傑作選
堤 邦彦 編訳
祥伝社 2008-07 (新書)
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『罪と罰』を読まない / 岸本佐知子×三浦しをん×吉田篤弘×吉田浩美
ドストエフスキーの名作「罪と罰」を読まずに語り倒してしまおうという、大胆不敵とも云うべき読書会への誘い。 とある宴席の片隅で膝を突き合わせ、嬉々として語らう四人が目に浮かぶようでニマニマしてしまいます。 まぁしかし時間の無駄、ナンセンス、役に立たないという贅沢さを究めた知的遊戯であると同時に、読んだだけで満足し、良しとするようなある種の権威主義に一石を投じる、なかなかにパンチの効いた企画とも捉えることができそう。
名作ゆえに“読んだことはないけれどなんとなく知ってる”各々の情報を寄せ集めて、そこから話の筋や作者の意図や登場人物の思いを探り当て、「罪と罰」がどんな物語なのか推理していくというのが基本スタイル。 “読んだことはあるけれどよく覚えていない”側の自分にも充分に参戦の余地があることを恥じ入ればいいのか喜べばいいのか;; 岸本佐知子さんと吉田浩美さんのフライング情報や、既読編集者の立会人干渉があるので、実はそこそこナビゲートされちゃってるし、自由奔放というほどではない・・というかそれは流石に憚られるのか。 でもやり過ぎたらやり過ぎたで逆に白々しくなってしまっていたかもしれないし難しいところだなぁ。 ひょっとすると企画そのものが創作なのか? と捻くれた小説読みの性でついつい勘繰ってしまう部分もクラフト・エヴィング絡みなだけに(笑)なきにしもあらずだったものの、ぐいぐい牽引する三浦さんの妄想力の逞しさ、岸本さんの茶々入れ、浩美さんの軌道修正、篤弘さんの気づきを促す示唆など、それとなく絶妙にチームワークが発揮されていて、本気の遊び心が実に生き生きと伝わってきました。
終章はちゃんと答え合わせというか、締め括りの読後座談会が設けられています。 投げ技のかけ逃げではありませんのでご安心を。 斬新かつマニアックな切り口で「罪と罰」を紐解くこの辺りの見事なお手並みも、しかしセンスある書評と言ってしまえばそれまでなのですが、ここまで熱烈に引き込まれるのは未読座談会が利いているからに他ならないのです。 捨てキャラについて延々と論じていたことが発覚したり、想像の遥か上をいくキャラのぶっ飛びぶりに大興奮したり。 個人的にツボだったのはSMとの親和性の指摘。 「バーデンバーデンの夏」を読んだばかりの身としては、その鋭さにハッとさせられるものがありました。 また、みなさんが異口同音スヴィドリガイロフで盛り上がってるというのに、スヴィドリガイロフの存在なんか記憶すらない自分の残念さに身悶えしたり。 ラスコーリニコフとスヴィドリガイロフが表裏を成すように暗示されているのが「罪と罰」の醍醐味らしいではないですか(泣)
お世辞ではなく本心から読み返したくてムズムズとワクワクの高揚感が止まりません。 読んだら終わりというわけではないのと同じように、読まないうちから始まっている・・ そんな読書の在り方、小説との付き合い方の提言に、なにかこの上なくシンパシーを感じてしまいました。 本書の試みが、物語に触れることの根源的な喜びを意識する契機になってくれたことに間違いはありません。


『罪と罰』を読まない
岸本 佐知子×三浦 しをん×吉田 篤弘×吉田 浩美
文藝春秋 2015-12 (単行本)
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ルチアさん / 高楼方子
[出久根育 装画] 鬱蒼とした庭にゆらゆらとすみれ色の空気が立ち込める“たそがれ屋敷”。 ずいぶん昔のこと、そこに美しく儚げな奥様と、ふたりの娘スゥとルゥルゥと、ふたりのお手伝いさんが暮らしていました。 ある日、新しいお手伝いのルチアさんがやってきます。 丸いからだを弾ませ、ハミングしているようにフンフン鼻息を立てながら元気いっぱいに働くルチアさん。 “気の毒”なルチアさんは、なぜか気の毒から一番遠いところにいるように見えます。 不平や愚痴や噂話や執着と無縁であると同時に、特別に何かを愛するということもないルチアさんの前では、誰もが心にしまった輝くような思いを表に出してみたくなるのです。
外国航路の船に乗るお父様がお土産に持って帰った異国の光る水色の玉。 そのスゥとルゥルゥの宝物にルチアさんはそっくりです。 姉妹にだけは彼女が水色に光って見えるのでした。
“どこか”のために“ここ”を忘れるか、“ここ”のために“どこか”を忘れるか、“ここ”か“どこか”の何かが満ち足りないか・・ そんな状態が世の常、人の常、生きることの定めみたいなものかもしれない。 “ここ”と“どこか”がひとつになり得て自足しているルチアさんは、なんとも不思議で稀有な存在に思えます。 おいそれと人が辿り着けないような手の届かない境地。 それこそ水色の光る実でも食べない限り。
ルチアさんの生き方を感じ、考えるボビーの明哲さや、それによって自己を再発見するスゥの柔軟さに、やはり現実としては最も近くありたいと願う読者は多いのではなかろうか。 肯定的に“ここ”に居ながら憧れの“どこか”を静かに思う・・ それが小市民な自分にとっての理想の限界かなぁって。 ちょっと諦観気味の大人の心をも切なく揺さぶる効用があるのですが、子どもの頃に読んでいたらどんな受け止め方をしたのだろうかと、その想像が上手くできなくて。 自分がルチアさんのきらきらに気づけないタイプの子どもだったからかもしれないのだけどね。 ちょっと、一抹の寂しさを味わったりもして。
生き方の物語なのだけど、生き方をどう感じどう考えるか(ルチアさんを触媒に)促される物語でした。 そしてその感じ方や考え方もまた一つの生き方なのだと。
光る水色の玉と実は、“どこか遠くのきらきらしたところ”の象徴として物語に鮮やかなイメージを吹き込みます。 ターコイズやアマゾナイトを連想したくなるのと、出久根育さんの仄かに装飾性を意識した絵のせいか、エキゾチックで神秘的な香りが一入なのです。 調べてみたら水色の石って色々あるんですね。 パライバトルマリン、ステラエスペランサ、ヘミモルファイト、ラリマー・・ みんなキレイ! 水色の実って全然思い浮かばなかったんだけど、ノブドウや、熟し途中の青葛、クサギの実あたりがそれっぽいかも♪
光る水色の実のシロップ漬けを広口瓶からひとつ取り出して水の入ったガラスのコップにぽとんと落とし、くるくるかき混ぜて出来上がる透きとおった輝く水色の液体。 魔女? 聖女? 真夜中の台所で水色の実の光るジュースを拵えるルチアさんと、その様子を窓の外の暗闇から慄きと憧れの瞳で息を呑んで見つめる子どもたちの光景がえも言われません。


ルチアさん
高楼 方子
フレーベル館 2003-05 (単行本)
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エウラリア 鏡の迷宮 / パオラ・カプリオーロ
[村松真理子 訳] 日本では(現時点で)この一冊しか紹介されていないイタリア人女性作家の短篇集。 1988年に発表された作者26歳の処女作品集で、四つの短篇が収められている。 “幻や想像の世界に現実以上のものを見てしまった人間の悲劇がダマスク織りのように紡ぎ出される”との紹介文があって、この“ダマスク織り”ってワードチョイスがなんともしっくり嵌る。 典麗で繊細優美でシルキーで・・っていうのもあるんだけど、パターン化された模様がひと連なりに織り出されていく感じなんか特に。 四篇は同工異曲というべき相似形を成して響き合っているのだ。
瑞々しく美しい綺想に彩られた愛と孤独の物語。 どの短篇の背景もヨーロッパのどこか・・という以外に時間も場所もつかみ難いのだけど、今よりもっと古くもっと緑の濃い旧世界の記憶が籠る空間イメージ。 眼裏に残る映像の強さも特徴的で、古譚や伝説風のロマン派チックなモチーフに既視感があり、またその寓意性にも馴染みがある。 神の遊戯のごとき運命に殉じていくようでありながら、主人公たちの行動の秘かな動機には、自己同一性の揺らぎ、確固とした拠りどころの不在に倦む現代的な病理が関わっていて、リアリティとメルヘンが内側と外側から照らし合うような趣きを具えている。
豪華な馬車の内部で空間を無限に広げている鏡の部屋、死者のために何世紀にも渡って造られてきた地底の荘厳な彫刻庭園、巨大な影法師の囚人がヴァイオリンを奏でる閉ざされた監獄など、生の無常を体現する地上世界から隔てられ、切り離されて完結し自足している夢幻境のような反世界が物語の対位旋律となって死や不変を象徴している。 実体と影、静と動、聖と俗、刹那と永遠・・ 両者の呼び交わしはその間に横たわる目に見えない淵の深さを裏書きするばかりであり、未だ見ぬ魂の故郷のようなかつて一体だったかもしれない失ってしまった自己との安定的合一を願う衝動のような恋慕の情を悩ましく充満させ、その虜となった人たちの渦巻く想念を燃え立たせている。
テーマは変奏しながら反復するのだが、表題作の「エウラリア 鏡の迷宮」は虚実の錯綜から浮かび上がる真実性への問いを、「石の女」は、死から逆照射される生の意味を、表裏を成す「巨人」と「ルイーザへの手紙」は自我の分裂の問題に関わる分身小説的な側面をより強く感じたような。
どこにも属せない疎外感や途方もない遮断は偏に不毛で、なんら救いを提示することのない虚しさが茫漠と漂うオープンエンド。 ややメランコリーにもたれ掛かり過ぎかなという節はあるのだけど、そのため殺伐感はなく、非情さと無垢が綾を成し、襞を成して揺れ動く織物のような世界がどこまでも甘美なのだ。


エウラリア 鏡の迷宮
パオラ カプリオーロ
白水社 1993-06 (単行本)
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夢巻 / 田丸雅智
星新一、江坂遊の系譜に連なる新時代ショートショートの旗手として注目されている作家さん。 初作品集ということもあって筆が若いです。 でも、ここからどんな風にグレードアップしていくのかなってのはちょっと気になります。
オフビートでキレッキレな感じを想像していた自分の好みとは違ったんだけど、いや、確かにそういう要素もあるんだけど、どちらかというとロマンあり、郷愁あり・・ みたいな叙情性優位な方向かな。 アイデアストーリーの“アイデア”はいいもの持ってる感が伝わってきて、このシュール&ナンセンスの連打はとっても楽しかったです。 ただ“ストーリー”が物足りないのは如何ともし難く。 オチにさほど重きを置かないポリシーなのかもだけど、いきなりショートショートのオチなし余韻ものはハードル高かろうに。 頑張って欲しいけど。 洒落た不思議な世界観を味わう奇想集といった趣きだったと思う。
「蜻蛉玉」「綿雲堂」「岬守り」「星を探して」「夢巻」などの優美な感動系ファンタジーよりも、「妻の力」「大根侍」「白メガネの男」辺りに食指が動きました。 「妻の力」は、いわゆる“ダラ奥”に依存してしまう夫心理を星の一生や宇宙の成り立ちに託けて描いてるのだけど、これが結構なるほど感あって良かったのだ^^; 剣士の仇討ちストーリーの定型を踏みながら、肝心の刀が大根という「大根侍」は、こちら側の住人とあちら側の住人との間の論点のズレ、噛み合わない会話が可笑しみを誘う系で、この“刀と大根”のように有機物と無機物、あるいは違う素材同士を混同することで生じるチグハグさの趣向はかなり多かったと思う。 こちら側の住人があちら側の立派な伝道師になってしまう展開のしらばっくれたユーモア感覚が「大根侍」は絶妙だった。 「白メガネの男」は、ニヤッとしたくなるようなブラックユーモアがそこはかとなく漂うところが好き。
あとがきでも触れておられた通り、日常のあるあるネタやふとした疑問に触発されたと見受けられる作品が多いです。 リモコンっていつもなくなるよな・・は「リモコン」へ。 これ、ラストのオマケみたいな謎かけ問答ネタにクスッとなりました。 寝ぼけた時のミミズののたくったような字って奇妙だよな・・は「みみずの大地」へ。 これ、落語の「あたま山」チックなオチが悪くなかった。 飲み会終わった出入り口付近で、あれ?あいつがいない・・は「白石」へ。 このシュールさはゾクっとする。 「文字」は中身のない文字が増殖していく社会への警鐘と思いきや、新しいステップへの華麗な進化にズコーってなりました。
また、あちら側の住人である友人や先輩や同僚の言動、生き様の奇怪さや突飛さが理解できないこちら側の主人公という構図において、その一人称の主人公が作者本人の投影とおぼしきケースが多々あり、そこから仄かな都市伝説風味が生まれているのも特徴的と言えるかもしれません。


夢巻
田丸 雅智
出版芸術社 2014-03 (単行本)
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バーデンバーデンの夏 / レオニード・ツィプキン
[沼野恭子 訳] レオニード・ツィプキンはソ連時代を生きたユダヤ系ロシア人作家。 と言っても本業は病理学者だそうで、地下出版の非公式文学とは距離を置いていたため、発表するあてもないまま、ただ純粋に文学を愛する気持ちで詩や小説を書いていたという。 民族迫害や恐怖政治に蹂躙された過去、そして現在が、悪夢のように重ね重ねのし掛かってくる生涯に、駆け足のプロフィール紹介を読んだだけで胸がざわついてしまった。 皮膚の下に隠し持つ悲しみと痛みは、作品に取り払えない影をひっそりと落としている。
70年代後半に執筆された本作品は、海外出版の可能性を託されたジャーナリストの友人とともに海を渡ることになった。 1982年、ニューヨークのロシア語週刊誌で雑誌連載が開始されたとの朗報に接することはできたのだが、ツィプキンが56歳の生涯を閉じたのはその矢先のことだった。 連載後、英訳版が出版されるに至るも、当時は注目されず埋もれてしまった本作を、ロンドンの神保町と言われるチャリング・クロス街の書店で古本の山の中から“発掘”したのが彼のスーザン・ソンタグ。 本書には「バーデンバーデンの夏」本篇に加え、2001年の再販本にソンタグが寄せたエッセイ「ドストエフスキーを愛するということ」が付載されている。 揺蕩うような流離うような心の旅の物語。 熱く静かな耀きを秘めた“意識の流れ文学”の佳品だ。
冬のある日、モスクワ発レニングラード行きの列車に乗った“私”は、横揺れの激しい車内で頼りなく明滅するランプの下、一冊の古い本を開き、読み始める。 それは、ドストエフスキーの二度目の妻アンナの日記だった。 ツィプキン自身の限りない投影である語り手“私”が綴る自伝と、文豪ドストエフスキーの評伝が縒り合わさり、徐々に溶け合うような構成がベースとなっている。
時折ふと我に返り、雪に覆われた車窓やその白い覆いを透かして滲む停車駅の様子などに目を留めつつ、またいつの間にか“私”の心は本の中へ、およそ百年前の世界へと沈潜していく。 新婚のドストエフスキー夫妻がペテルブルグをたち、ドレスデンやバーデンバーデンやバーゼルで過ごした一夏へと。
ドストエフスキー夫妻の物語は “私”の想念として鮮やかに写実される。 史料に忠実でありながら、その空白部分を“私”のイマジネーションで補強した思索世界だ。 現在の冬と過去の夏、ソビエト体制下とロシア革命以前を行きつ戻りつ列車に揺られる“私”はやがて、暗い記憶が吹き溜まる凍てつく冬のレニングラードへ到着する。 同時にそこはかつてドストエフスキーが暮らし、彼の小説の登場人物たちが闊歩したペテルブルグでもある。
衝動に突き動かされるように大通りや路地に点在するゆかりの場所を巡り歩く“私”の、さながら聖地巡礼の旅の終着点は、ドストエフスキーが最晩年に移り住んだクズネーチヌィ横町の角のアパート、現在のドストエフスキー博物館であった。 頭上の壁にラファエロの「サン・シストの聖母」の複製画が飾られた書斎の端の革張りのソファーで息を引き取った文豪の、その臨終の数刻へと思いを馳せるのである。 アンナを媒介者に、彼女の眼を通して。
小説の趣向は、ヨーロッパ滞在経験を綴ったドストエフスキーの著書「冬に記す夏の印象」へのさり気ない目配せのようであるし、ドイツの保養地バーデンバーデン滞在中のセクションは、その直前作「賭博者」のもう一つの物語であるかのようにも感じられるし、バーゼル美術館での一幕には次回作「白痴」への大いなる予祝が込められてもいるのだ。
ドストエフスキー夫妻の物語は、“私”の思索世界で繰り広げられており、目線は常にアンナを介した“私”であるため、小説内の現実と連続的で共時的な関係を保ち、小説全体が現在と過去という単純な二元構造では表現できない朦朧とした流動性を具えている。 また、直線的な物語とは違い、ドストエフスキーの作品論をはじめ、ツルゲーネフやプーシキンとの関係性や、現代ロシアの文学動向への言及などを射程に入れているため、時制や場や語られる対象が目まぐるしく移り変わる。 しかしそれらは評論のための評論ではなく、ドストエフスキーを見つめる姿勢の中から自然に生まれた情熱の露として作中に溶け出しているように思えた。
ドストエフスキーはなぜ反ユダヤ主義者だったのか? それはツィプキンの遣る瀬無い、狂おしい問いである。 この煩悶が、憂いが、心の傷が作品を生み出す母胎になっていたのは間違いないのだろう。 小説の中ではあれほど他人の苦しみに敏感で、辱められ傷つけられた人たちを熱烈に擁護しながら、偏見に凝り固まってユダヤ人を罵倒する、その自己矛盾に気づかないドストエフスキーに代わって、自身はユダヤ人でありながら、ユダヤ人を嫌うドストエフスキーに惹かれてやまない“私”の自己矛盾を曝け出し、精神の呼応を乞い願い、対話を呼びかけている。 その想いは躊躇いがちに満ち引きを繰り返し、やがて自己の片割れを渇仰するアンドロギュノス的な恋情さえ想起させるほどに昂まっていく。 憎しみを愛で浄化しようとするかのような激情が苦悩と陶酔を同時にもたらし、キリキリと切ない。
夫婦の性愛に仮託される他者との共鳴を“海を泳ぐ”、自身の深部への探求を“山を登る”と表現し、横と縦の二つの意識を対象化させている点が興味深く、究極的には、ツィプキン自身とドストエフスキーとの“魂の交感”の可能性と、“魂の深淵”を突き抜ける死の瞬間への関心、この二つが大きなテーマを成していたのではないかと感じた。 しかしながら答えは夢想に委ねる他にすべはなく、辿り着ける場所もない。 可能性を可能性のまま永久に持ち続けるのが人間の真実であるのだと、開かないドアの存在を一番よくわかっているのは“私”なのだと・・ そんな物憂い吐息が聞こえてくる。 雪煙の中に濃密な気配となって篭る熾火のような命の芯の、その火照りが、とても美しく思えた。


バーデン・バーデンの夏
レオニード ツィプキン
新潮社 2008-05 (単行本)
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★★★
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懐かしいラヴ・ストーリーズ / アンソロジー
[中村妙子 編訳] イギリス(とアイルランド)の女性作家7人による“愛の物語”の競演。 原作の初出が二十世紀半ばから80年代頃とおぼしき短篇群で、小説の舞台も概ね同年代。 “ちょっと古めかしく、どことなく昔懐かしい感じ”のセレクションです。 そして都会もの、カントリーもの、どちらの作品からも由緒正しさや上品さが豊かに香っています。 中村妙子さんというと、わたしとしては児童文学とクリスティーのイメージなのだけど、本アンソロジーにも採られているロザムンド・ピルチャーやミス・リードといった作家さんの翻訳にも心血を注いでいらっしゃったんですね。 特にこのお二人の「ララ」と「ドクター・ベイリーの最後の戦い」は、善性への信頼が厚く底流していて、やさぐれた心に沁みて沁みて。
“田園作家”と称されるリード。 本編収録の「ドクター・ベイリーの最後の戦い」は、コーンウォールに実在する村をモデルにしたスラッシュグリーン村に暮らす住人たちの日常を描いたシリーズの中の一篇らしい。 あとからあとからじわじわと涙が滲んでしまうデトックスな佳品。 ただ今回は抄訳だったのだよね。 完訳版、それに種々他篇も収められた連作短篇集「スラッシュグリーンのたたかい」をぜひ読んでみたい。 「ララ」の清く正しく美しいベタさも大事。 ララの内面描写がないことがこの小説を輝かせていたのだろうなぁ。 そろそろぼちぼち一周回って正しい本に心洗われたいお年頃なのかもです。
しかし、まだまだやはり「雪あらし」もよかった! ハッピーエンドに限りない疑問符が打たれているかのような心理小説っぽさ、夢オチの最後を描かなかったみたいなこの感覚・・堪らないです。 セアラは一体どこから泡沫の夢の世界に滑り込んだんだろうと考えると、二人で暮らした部屋のドアを開けた時? その下宿の玄関ドアを開けた時? 昔馴染みの道に入った時? と遡って、やっぱり自分が“スノーボールの中にいる女の子”だと感じた刹那に行き着く気がしてならないのだ。
「マウント荘の不審な出来事」は、ヴィクトリア朝風のご婦人を若干おちょくり気味に、でも基本は温かい眼差しで描いていて、ユーモアのセンスが絶妙。 戦争の傷跡が重たく垂れ込めた時代の昏い熱気が遣る瀬なく漂う「もう一度、キスをして」は、もう・・タイトルが切なすぎる。 このワンフレーズのチョイスに痺れてしまう。 セッティングは古風なんだけどテーマがどこか現代的で、唯一ラヴ・ストーリーという括りでは捉えきれないものを感じたのが「砂の城」。 子供が大人になるための日々の経験値のなんでもないような(けれど確かな)断片、その一瞬をさっと捉えて逃すことなく描破する感性が凄まじくて、苦しいほどのノスタルジーに締めつけられました。

収録作品
雪あらし / ジーン・スタッブズ
マウント荘の不審な出来事 / ジュディー・ガーディナー
愛だけでは… / ステラ・ホワイトロー
ララ / ロザムンド・ピルチャー
もう一度、キスをして / ダフネ・デュ・モーリア
ドクター・ベイリーの最後の戦い(抄訳) / ミス・リード
砂の城 / メアリ・ラヴィン


懐かしいラヴ・ストーリーズ
アンソロジー
平凡社 2006-12 (単行本)
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謎のあの店 1 / 松本英子
近寄りがたい空気、来るものを選ぶディープな気配を発散させている“怪しい店”二十軒の敷居をまたいで、その謎めく佇まいの内側をレポートする実録コミックエッセイ。 東京下町の街角や路地裏や古い商店街を中心に、時には銀座界隈や温泉地や地方の田舎町などを交えつつの、昭和レトロ趣味満載なテイスティングに大変興をそそられました。 的確な観察眼で細大漏らさず描写された店の内観や街の景観を舐めるように観賞しつつ、ひと時のノスタルジックなトリップ感に浸り、上々の気分です。
柳原商店街、立石仲見世、浅草観音温泉、銀座青汁スタンド、立岩バーガー、ドイツビアレストラン・ゲルマニア、鷹匠茶屋、鉄オタの集う立ち呑みバー・キハなど、有名スポットの通な楽しみ方系や、噂に名高いマニアックな店への潜入系も面白くないわけじゃないんだけど、そういった世間の興味に応えるリサーチ趣向よりも、追憶と分かち難く結びついた超プライベート領域の、特別な私だけの感溢れる名も無き(比喩です)店に積年の思いを成就させるべく、意を決して踏み入る生活圏内に密着した話の方が好みでした。
そこだけ時が止まっているかのような・・ 営業しているのかさえ定かでないほど鄙びた外観。 しかし醸し出す雰囲気がなぜか気になって仕方ない店のあれこれ。 そういう店っていざ入ってみたら不思議のヴェールがすっかり剥ぎ取られて、拍子抜けするくらいどーってことなかったり、残念感よりの気持ちに押し寄せられるのが関の山だったりするものなのだけど、そんなところもひっくるめて素敵なのだ。 というのは、行動によって得たどんな結果も楽しんでしまおうとする著者の心意気が、この本の隅々にまで行き渡っているからに違いなく、白茶けた感慨が一つの“物語”になってしまうだけの強度を有し、そこに捨てがたい風情が生まれているからに他ならず。 店主さんとの束の間のとるに足りない交感が淡くて濃密で。 ほっこりと、しっぽりと、きゅんと、クスクスっとさせてもらったり。 自分の記憶を引っ張り出して二、三軒の店を思い浮かべずにはいられなくなるんじゃないかな。 今はもうない懐かしいあの店やこの店までも・・
ケーキ屋、美容室、占い屋、レストラン、旅館、小料理屋、ラーメン屋辺りの回がマイベスト。 特にお気に入りは「あのレストラン」。 上質な掌篇のように読ませる作品で、甘やかな痛みにまだ心が疼いています。
しかしほんと、松本英子さんは男前なチャレンジャーですわ^^; 自分なんかそもそも行動派じゃないし、どうしようもないビビリだから絶対ムリで、一回きりの人生、どんだけ損してるんかなぁーって、こういう無駄な情熱(の満喫っぷり)に触れると遣る瀬ない憧憬と嫉妬で身悶えしてしまいます。 この二十軒の中で自分がなんとか入れそうな気がしないでもないのは青汁屋と喫茶店くらいか;; 一人となるとどちらもムリかもわからん。


謎のあの店 1
松本 英子
朝日新聞出版 2012-08 (単行本)
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10の奇妙な話 / ミック・ジャクソン
[田内志文 訳] 現代イギリス人作家による2005年刊行の短篇集。 原題は「Ten Sorry Tales」だそうで、まさに“奇妙”と“sorry”が表裏を成すが如き小品が並んでいます。
舞台となっているのはロンドンだったりウェールズだったり、間違いなくイギリスのどこかであり、おそらくは現代(少なくとも戦後)なはずなのに、なんともヴィクトリア朝風の古色をまとっていて、御伽噺と類縁関係の強い慣れ親しんだ素朴さを際立たせているのが特徴的。 イギリスの伝統風土に身を置くような、旧世界の残像を感じさせるアナクロニックな雰囲気が好きです。
悪人ではないのだけど共感力がない人たちの犇めく“世界”から孤立してしまう主人公たち。 往々にして因果が作用しているため不条理な印象は薄く、ロマン掻き鳴らす荒唐無稽でファンタスティックな展開の内部に反響し木霊する悲哀や痛みに寄り添える余地があります。 意識下に抑え込んでいた渦まく感情が閾値を超えた刹那、ある“境界”に立たされている主人公たちの心の在りようが描かれており、作品の核にヒューマニストとしての視点があるのは確かなのだけど、洒脱さで覆い尽くし、屋台骨をおいそれとは露呈させません。 優れた悲劇はその喜劇性に支えられているという一つの真実を、こよなく理解している作家だと思います。
道徳律の枠内を逸脱するもの、しないもの、魔法的事象が出来するもの、しないもの、こちら側の秩序へ回帰するもの、しないもの・・ コンセプト志向の作品集ですが、ヴァリエーション豊かでそれぞれに温度差があって飽きが来ません。 もっと読んでいたかったなぁ。
「ピアース姉妹」がマイベスト。 山姥ならぬ海姥伝説、あるいは青ひげ伝説風モチーフを継承したシンプルな筋書きなのだけど、平凡な日常を狂気へと反転させてしまう“境界”が最も鮮烈で。 この「ピアース姉妹(The Pearce Sisters)」は、アニメーションでの映像化作品をネットで観ることができたのですが、そちらも素晴らしい。 大絶賛したい。 原作の上質さを損なわないまま、視覚効果によって本来の笑いと悲しみがよりシャープに表現されています。 なんだか原作の意図を再確認させてもらえた気がします。
ランタンを下げたボートが点々と音もなく漂う地下湖の映像美が、半永久的に忘れられそうにない「地下をゆく舟」と、悪趣味ギリギリのイギリス的ユーモアにとどまらず、落語張りの落とし話になっていてテンション跳ね上がってしまった「川を渡る」もお気に入り。 憎々しくてふてぶてしい老馬とのマジ勝負(笑)な物語「ボタン泥棒」もチャーミングで好きでした。
ちなみに、古物店や博物館や秘薬秘法モチーフが魅惑的な「蝶の修理屋(The Lepidoctor)」も映像化されているのですが、こちらは実写版。 幾分か脚色されてて、めっちゃいい話になってた^^ でもこれはこれで全然悪くない。 「もはや跡形もなく」は西洋の民話世界における“森”の寓意を見事に体現していたと思いました。 「眠れる少年」も非常に寓意的。 自分の人生の漠とした心許なさと共鳴してしまう作品。 この両者が醸し出す“大人になる”と“大人になれない”の暗示的コントラストが印象深いです。
モンタギューおじさんの怖い話」と同じデイヴィッド・ロバーツが挿絵を描いてます。 ティーンズから大人まで楽しめる系でゾゾっと怖くてクラシカルな雰囲気で・・的な持ち味の小説と相性いい絵だよねぇ。 ティム・バートンぽくてゴーリーぽくて大好きなのだ。 表紙では各短篇の主人公たちがお揃いで記念撮影しちゃってます^^ セピアトーンがまた素敵。 裏表紙はジャック坊やかな・・?


10の奇妙な話
ミック ジャクソン
東京創元社 2016-02 (単行本)
関連作品いろいろ
★★
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ゴースト・ハント / H・R・ウェイクフィールド
[鈴木克昌 他訳] 1996年に国書刊行会から刊行された短篇集「赤い館」の増補版で、十八篇を集成した決定版というべき傑作選集。
M・R・ジェイムズ流のゴースト・ストーリー作法を受け継ぎ、その小説形態を現代的な一つの完成の域に高めた“最後の正統派英国怪奇作家”と位置づけられるウェイクフィールドですが、二十世紀半ばから後半には長らく“忘れられた作家”状態にあったといいます。 そのころから平井呈一氏は、“恐怖・怪奇の孤塁を敢然と守り続けている現代作家”と、高く評価し、繰り返し言及していたらしい。 まさに目利きの面目躍如ですね。 今なお玄人ファンやマニアに根強く愛されるのも宜なるかなと頷けてしまう神秘霊妙なる佳篇が揃っています。 名手が極めたシックでモダンな様式美の、咽せるような芳香とシルキーな肌触り。 視野の縁の暗い影が隠微に蠢くような・・ 薄霧のまといつく嫋嫋たるゴシック調の怪異と狂気のアトモスフィアを味わい尽くしました。
関わり合いにならない以外に決して避けられない災厄、得体の知れない“何か”に対する本能的な畏れ、魅入られずにはいられない魔性、汎神主義的概念、連綿と引き継がれた名付け難い恐怖の感覚・・ そんなエッセンスが濃縮されています。 人を不安に陥れる過去からの反響音を発し、余所者を疎外する不吉で謎めいた建物、山、谷、庭、湖、畑など、忌避される場としての“魔所”、特にチューダー朝様式やエリザベス朝様式、アン王女時代風やジョージ王朝風といった古い瀟洒な館に塗り込められ、秘められた暗澹たる邪悪な記憶を扱う幽霊屋敷ものが多数。
概ね発行年代順に並べられているとのこと。 ウェイクフィールドが実際に訪れたことがあるという邸で自らが遭遇した幽霊体験をもとに書き上げたという最初の小説「赤い館」が筆頭に配置されており、これが凄く好きでした。 反復し輻輳するイメージのコラージュ、その幻視的ヴィジョンの錯綜感には“本物”の怖さがあり、複眼的で分裂的で、恐怖も然ることながら極上の幻想小説といった香しさが一入。
「目隠し遊び」や「ゴースト・ハント」のエレガントな軽妙さは言うに及ばす、個人的にはチェスをモチーフにした「ポーナル教授の見損じ」や、演劇をモチーフにした「中心人物」の(やや毛色の違う?)ディープな熱病感も美味でしたねぇ。 「“彼の者現れて後去るべし”」や「暗黒の場所」は、悪霊退治的で日本風には陰陽師ストーリーを連想させるものがあるのですが、“鬼も人、人も鬼”的な概念は介在せず、破壊的な力をふるう幽霊(天国に行けずに彷徨う死者)は完膚なきまでに暗黒面に堕ちた悪魔であり、正邪の曖昧さがないのが古式ゆかしい西洋の幽霊観だなぁと、そんなことを思わされたり。 実体のない脅威なるものと生者との間に因果や抒情の余地がない(もしくは希薄)なのも日本の怪談と比較できる点ですね。
ウェイクフィールドは最後まで幽霊の存在を信じる者の立場から執筆を続け、“科学がゴースト・ストーリーの機能を奪い、陳腐なものにしてしまった”という決別の辞を残して筆を折ったといいます。 生前最後の短篇集からピックアップされている終盤の四、五篇は格別なものがありました。 鈴木克昌さんがあとがきで“ゴースト・ストーリーにかける老作家の情念の残り火のよう”と形容しておられる通り、科学の徒への昏い挑発を孕むような・・ 何かもう、万感の風情が漲り、密度の濃い読み応えでした。


ゴースト・ハント
H R ウェイクフィールド
東京創元社 2012-06 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★
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