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ロリータ / ウラジーミル・ナボコフ
[若島正 訳] ものすごい密度。 心地よい疲労感。 充実の注釈は、“初読ではなく必ず再読のときにお読みいただきたい”って訳者さんのご助言ですが、無理っす・・誘惑に勝てませんでした。 可愛くて野蛮でお馬鹿さんな小悪魔、そんな元祖ロリータ像は(自分の中では)どんぴしゃりな感じでした。(逆に今、“ロリータ”という言葉がどんな一般的イメージを付与されてるのか聞かれてもよくわからなかったりする;;) ただもう、ここまで高尚な芸術性を備えた作品だったんだなぁって。 ポルノグラフィックな小説と誤解している人もいないだろうけども。 一回読んだくらいで感想晒すの腰が引けます。 ネットの海にゴミ捨てるようで申し訳ない・・と、思いつつ。
ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。 我が罪、我が魂。 ロ・リー・タ。 舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。 ロ。リー。タ。
繊細で、傲慢で、哀れな男のグロテスクなメルヘンを抽出するユーモアのセンスにノックアウトされた冒頭の一瞬で、ナボコフの言葉の世界の虜になってしまった。
文学的言及、語りの技巧、絢爛たる言語遊戯・・ 精緻な迷彩が施された多面体のような小説。 少女性愛者のハンバート・ハンバートが獄中で綴った回想記(告白録)の体裁で、一筋縄ではいかないハイブローな文章が織られていきます(正確にはハンバートの原稿をジョン・レイ・ジュニア博士が検閲したテクスト)。 ハンバートの詩情と自嘲と諧謔と妄想と慟哭のハーモニー。 流れる旋律の味わいに読めば読むほど惑溺してしまうのでした。 ちょっと余談だけど、“陰翳と暗闇のハンバーランド”、“タクソヴィチ氏”、“愛人探偵トラップ”、“前ドロリアン紀”あたり、愛して止みません。 ナボコフにおちょくられてこんな言葉まで作らされちゃってるハンバートに同情。 20世紀中葉という時代のアメリカ社会の風俗、その物質的緻密さを活写するロードノヴェル的側面も有し、しかも既読ミステリを思い浮かべてみると、トリック的に「『アリスミラー城』殺人事件」が近いと思ったw でも注釈なかったらポカーンだった・・たぶん^^;
多種多彩な読みを可能にする「ロリータ」。 振り返ってみると、自分はもっぱらロマンチック要素重視で読んでいたことに気づきました。 これカミングアウトしてもいいんだなって、大江健三郎さんの解説に勇気をもらった。
「ロリータ」における作者の意図は何か? という問いに対して、“インスピレーションとコンビネーションの相互作用と答えるほかない”と、“教訓を一切引きずっていない”と、ナボコフはあとがきで牽制してるんだけど、こうも書いています。
私にとって、虚構作品の存在意義とは、私が直截的に美的至福と呼ぶものを与えてくれるかどうかであり、それはどういうわけか、どこかで、芸術(好奇心、情愛、思いやり、恍惚感)が規範となるような別の存在状態と結びついているという意識なのである。
たぶん、罪悪感を棄てた美意識というものは、ナボコフに美的至福をもたらさないんだろう。 この感覚が作品の中枢神経だった気さえして。 個人的嗜好だと言い張っても、読む者の意識無意識に何かしら喚起の種火を残してしまうのが名作の名作たる証し。
同じ性的倒錯者でありながら、ハンバートとクィルティは対照的であり、表裏の関係性が投影されていたのは確か。 分身(あるいは影)と捉えることが可能ならば、ハンバートが本当に殺したかったのは“自分の中の罪悪感と道徳観の欠如”だったと読むこともできるのではないか。 特に、けだものギアが入ってバッドトリップ領域に突っ込んでいった二度目の逃避行の時でさえ、追いかけてきた(と妄想した)トラップは、置き去りにした良心の権化に他ならなかったし、ハンバートは常に“純粋な嗜好性の追求”と“呵責や道徳的な自制”の狭間にあった人であり、クィルティはその葛藤を持たなかった人なのだと思う。 ロリータがクィルティを愛した(愛さざるを得なかった)悲しいほどの荒廃が、この小説の残酷な本質を突いている気がします。
また、愛するロリータが“ニンフェット”ではなくなる時を迎えることへの怖れや焦燥、そこにハンバートのもう一つの自己撞着を読み取ることができるかもしれない。 ニンフェット愛とロリータ愛はハンバートの中でイコールではなかった事が判明する終盤の、救われないことで救われたような救われない痛み・・ つかまえどころのないまま、さざ波のように揺れるだけの微かな感傷が、わたしの胸を焦がしました。 あの再会の場面、薄っすらロリータとシャーロットが重なるんだよなぁ。
注釈によると、ナボコフ研究者の間では、ロリータの手紙が届いてからの出来事は現実に起こったものではなく、ハンバートの作った虚構だという読み方があるそうです。 最初、ピンとこなかったんだけど、慧眼なんじゃないかと、実は今、じわじわ来てます。 クィルティ殺しの場面は、“奪われた贖いを取り戻す”儀式として無意識のうちに寓意的に読んでいたんですが、あの、グロテスクな喜劇舞台と化した一場の、現実感覚の超越具合いが俄然、説得力を増す気がするし、それに、この説を採ると、ジョン・レイ・ジュニア博士が書いた序文もハンバートが構築した虚構の一部になるんですよね。 “道徳意識とは美意識に対して払わなければならない税金である”との訓戒に辿り着いた自身の体験を芸術作品に昇華することに贖いを見出そうと思い定めたハンバート像が、更には、ハンバートにこの贖いを課した、永遠の命たる芸術の力を信じるナボコフ像が、この説を採ることでより際立って見えてきて、作品の主題がピタッと嵌る気がするんだけどなぁ。 ロリータが生きてるうちに手記を発表して彼女に迷惑をかけることはハンバートの本意ではないから、ロリータが死んでしまったのは本当なのだと思う。 むしろ手記を書かせた強い動機がそこに生まれたのかも・・なんて。 あー、眠れなくなりそう^^;

<後日付記>
ハンバートに、いや、ナボコフに騙された・・甘いなぁ・・orz 彼(ら)をもっともっと疑ってしかるべきだったと「ロリータ、ロリータ、ロリータ」を読んで気づかせてもらいました。 そして、「ロリータ」がますます好きになり、ますます“本物の文学”だと思い、ますますわからなくなってしまった。 ハンバートの信用ならざる心から生まれた正真正銘の芸術。 この齟齬をどう読めばいいのか・・受け止めきれない。


ロリータ
ウラジーミル ナボコフ
新潮社 2006-10 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★★★
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アリアドネの糸 / キャロル・クレモー
[山本やよい 訳] イースト・コーストの都会型総合大学で古典学を教える準教授のアントニア・ニールセンが、大学博物館で開催される“エーゲ文明黄金展”の準備期間中に起こった展示品の盗難事件と、研究熱心な古典学科の学生アリアドネ・パパス失踪事件の謎を追うキャンパス・ミステリ。
ギリシャ神話はもとより、 “エウリピデスの戯曲の失われた断片”という古典文学的モチーフを絡めつつ、古代の遺物という考古学的エッセンスをあしらいながら展開していく眩いばかりのギリシャ・エーゲ色が魅力な作品でした。
犯人当ての鍵となるのはダイイング・メッセージ。 古典文学の大学教授たる作者クレモーの面目躍如な仕掛けと言えそうです。 言語へのこだわりが随所に織り込まれている気配はあるものの(訳者さんはご苦労くださっているのですが)いかんせん素養がないもので、その辺のニヤリポイントを悉く逃してる自信があります。
でも何よりの読みどころは、言うなれば神話を現代バージョンで書き換えた今アリアドネの物語であったということ。 古代のアリアドネと二十世紀のアリアドネが、自分の夢を叶えるための糸をどのように手繰ろうとしたか、その行動比較がテーマといっても差し支えないんじゃないかな。 女性作家が描くフェミ系なヒロイン像が印象的でもありました。
80年代前半頃のコンテンポラリーな作品なので、微妙な古さがなんとも^^; ジョーク交じりのスカした会話が日本語に変換されると浮いてしまうのは、お国柄以上に時代性というのもあるのかどうか・・ でも、この(ほとんど様式美と化した)ムズムズ感が案外と楽しめたりもしたのだった。


アリアドネの糸
キャロル クレモー
早川書房 1984-09 (新書)
山本やよいさんの訳本いろいろ

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イラクサ / アリス・マンロー
[小竹由美子 訳] マンロー初体験。 2001年に出版された短編集の全訳。 “チェーホフの正統な後継者”と言われる短篇の女王の、とりわけ傑作と評される作品集のようです。 マンローが舞台に据えるカナダの片田舎は、“アリス・マンロー・カントリー”と呼ばれるらしい。
訳者あとがきを読むと、想像以上に、自身の生い立ちと作品背景が密接していて、身の回りの世界を正攻法で書き綴る作家であることがわかります。 普段あまり読まない・・というか、ちょっと苦手とするタイプなのだけど、そういう小手先のバイアスは吹っ飛んでしまって、噛めば噛むほど広がる風味を反芻するように読みました。
甘さと苦さ、偽りと誠、幸せと不幸せ、高揚と抑制、親密さと距離感・・ 分かち難くうっそりと縺れる曖昧で不確かな意識のひと揺れを鮮烈に浮き上がらせるタッチは、なにかとても官能的なのに硬質で。 無音の激しさとでも言うべき生命の熱を発し、心臓の鼓動と同化するような生身の息遣いがそこにあって。 本心という幻の周辺にさざめく答えのない人間模様を映し出し、透徹した眼差しがそれを射ている。 心に落とされたのは、人生を内側から照らす秘密の匂いだったでしょうか。 決して外側からは、そして当事者さえきっと正確には捉えられない、一瞬と一生が交錯するように穿たれた、平凡で特別な情動の神秘。
個人的には「クマが山を越えてきた」で描かれた、疲弊と虚しさと(たぶん)愛を内包する夫婦像に打ち伏せられるようなカタルシスを感じた。 ナラティブのウィットを楽しめる「恋占い」もよかったり。 「クィーニー」は、義理の姉妹という関係の甘酸っぱい彩色が気に入ってます。 「浮橋」や「イラクサ」や「記憶に残っていること」の大枠は、まるでベタなロマンス小説なのに、無造作にフォーカスされた細部に深い感銘があって通俗を逸している・・かのようなその紙一重さは、作者の挑発だったのではないかと睨んでいる。 総じて、短篇という小さな身体でなんという量感を支えているんだろうと思う。 聞きしに勝る読み応え。


イラクサ
アリス マンロー
新潮社 2006-03 (単行本)
関連作品いろいろ
★★
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サム・ホーソーンの事件簿4 / エドワード・D・ホック
[木村二郎 訳] 日本独自編纂のシリーズ第4短篇集。 第37篇から第48篇までの12篇と、西部探偵ベン・スノウものから「フロンティア・ストリート」がボーナス併録されています。 年代としては、大恐慌の余波に加え、第二次大戦の兆しが垣間見える1935年春から1937年晩夏まで。 スポーティなロードスターを好んだサム先生も、最近乗るのはビュイックのセダン。 そろそろ四十路に差し掛かろうとしています、が意外にもまだ独身。 世界を揺るがす出来事とは無縁のニューイングランドの田舎町ですが、ノースモント仕様の不可能犯罪は安定供給されております^^
この巻の(物語的な)ハイライトは、エイプリルの後任を探すサム先生と、利発な看護婦メリー・ベストとの出逢いを演出する「黒いロードスターの謎」、サム先生が第一容疑者になってしまう「重体患者の謎」、エイプリルの赤ちゃんが洗礼式の最中、忽然と消えてしまう「田舎教会の謎」、ベン・スノウ老人と、サム先生が共演する「呪われたティピーの謎」辺りになりましょうか。
ベン・スノウは、20世紀間近の旧西部の町を舞台に活躍した、早撃ちのガンマンで、ホックが生み出したシリーズキャラクターの一人。 ビリー・ザ・キッド生存説から想を得たキャラクターなのかしら? 人物紹介も兼ねた実質的なシリーズ一篇目がボーナス篇の「フロンティア・ストリート」に当たるそうで、当然なからこちらの主役は若きベン・スノウ。 ミステリではありますが、砂埃舞うアリゾナの開拓地での、ウエスタン全開なカウボーイ・アクションが光っていました。
で、本筋に戻りますが、今回、サム先生ったら仮説形成の段階で下手な鉄砲撃ちすぎw エイプリルまで傷つけてヒドス;; 一、二巻ほどのキレはないのですが、しかし、よくもまぁ、満遍なく楽しませてくれるものです。 思うに、伏線の張り方が綺麗なんだよね。 プロット的に一番良かったのは、ピルグリム記念病院の開院8周年を祝う式典パーティでの黒人ミュージシャン密室殺人事件を扱った「グレンジ・ホールの謎」だったかな。 19世紀の伝説の放浪者が再来する「革服の男の謎」はツイストされたアイデアが良かった。 通電フェンスと番犬に守られた鉄壁の家で、親ドイツ派の男が殺害される「要塞と化した農家の謎」は、このシリーズには珍しく動機に創意がある作品。
新しい看護婦のメリーは、謎解き方面でも積極的にサム先生をサポートしていて、いい雰囲気生まれそうなのに。 結末知ってるのよねぇ。 これを無粋と言わずして。


サム・ホーソーンの事件簿4
エドワード D ホック
東京創元社 2006-01 (文庫)
関連作品いろいろ

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虹をつかむ男 / ジェイムズ・サーバー
[鳴海四郎 訳] 1962年、“異色作家短篇集”の一冊として刊行され、数度の改版を経て読まれてきた日本独自編纂の、そしておそらくは日本初となったサーバー短篇集、の文庫化。 二十五篇収録されています。
長くても三十ページ足らずなのですが、ショート・ショートとは違う味わいです。オチというほど明確ではなく、じわーっとくるようなエンドマークが豊かな香りを残す掌篇というに相応しい趣き。
自身を客体化して書かれている序文「ジェイムズ・サーバーと五十年を共にして」もまるで一篇の作品みたい。 サーバーは目が悪く、生涯視力の低下に悩まされていたそうなのですが、この序文によると、メガネ少年だった頃から一つのものが二つならぬ一つ半に見えたとか。 この半分の付加が作品の根底にあるのかもなぁと感じたり。 あからさまに現実を逸脱してはいないんだけど、地面からふっと浮いたような・・ 少しばかり厭世的というのか、世間のスピード感についていけてないドン臭さや繊細さを、やや距離を置いて見つめる眼差しは、穏やかでありながらシャープであり、人生の機微とさえ言えるユーモアと哀愁を響かせて止まないのです。
そつのない奥さんとしっくりいかない風采上がらぬ夫ものが多いんですが、「虹をつかむ男」や「機械に弱い男」みたいに自分の作り上げた妄想の世界へ逃避するパターンだったり、「空の歩道」や「大衝突」や「ビドウェル氏の私生活」のように、かなり重症な抑圧観念として描かれたり、はたまた「愛犬物語」のように、夢から覚めちゃうんじゃないかと思いきや覚めなかったのねバージョン(笑)のカッチョいー話もあったり。 特にお気に入りは「妻を処分する男」や「決闘」のように、夫のズレっぶりに奥さんが同調していく話。 このシュールさか好き^^
次いで多かったのが少年時代の“私”の体験もの。 半自伝的作品ということになるんだろうか、“たいてい誰もが何かしらにとりつかれていた”二十世紀初頭の陽気なオハイオ州の、家族や知人や隣人の語り草と言うべき珍事のあれこれ。 パニック心理の滑稽さや罰の悪さを、思い出として語る時のとっておき感が伝わってきた「ダム決壊の日」とか、懐かしい時代の複雑怪奇な財政武勇談(笑)が物語られる「ウィルマおばさんの勘定」なんかが面白かったなー。
他にも、新聞の第一面を賑わせたという二十世紀前半の、アメリカ犯罪史上の実話を取り上げたルポルタージュ風の法廷ものがあったり、ブラックユーモアのお手本のような「世界最大の英雄」や、「マクベス」の異解釈もの「マクベス殺人事件」などなど。
一際心を擽られたのが「クイズあそび」。 ないものを証明する事の難しさを、空とぼけたウィットで皮肉った手際の鮮やかさが痛快。 それと自身のイラストについてのエッセイ「本箱の上の女性」が格別でした。 これを読んだらチラシの裏みたいに無造作なスケッチの、“ろくに血が流れているとは思われな”さへの愛着が一入。 一枚、欲しい・・ってなる気持ちがわかる^^


虹をつかむ男
ジェイムズ サーバー
早川書房 2014-01 (文庫)
関連作品いろいろ
★★
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アンの想い出の日々 / ルーシー・モード・モンゴメリ
[村岡美枝 訳] 亡くなる1942年に完成したモンゴメリ最後の作品。 アン・ブックスの最終巻を、作者が望んだかたちで刊行した初めての完全版。
ブライス医師一家の噂話や消息が聞こえてきたり、時には脇役として登場もするサイドストーリーと、自分自身や戦死した息子ウォルターの書いた詩をアンが家族に読み聞かせる炉辺荘の団欒風景とを交互に綴る趣向で、内と外の視点からブライス家を捉えています。 二部構成のうち第一部は第一次大戦以前、「炉辺荘」「虹の谷」辺り(子供達が小さかった頃)の時代、第二部は第一次大戦後から第二次大戦勃発前後の「リラ」以後(子供達が成長してから)の時代が描かれていて、ことに内側視点における二つの時代の明暗の落差が痛ましい。
愛と友情と信仰、清らかな歓びと誠実な悲しみ、美しい自然と憩いの家、崇高な理想と色褪せない思い出・・ 光の糸が紡ぐ旧世界の“明”を謳い上げた、白日の夢のようなアン・ブックス。 それはまるでアンが掛けた魔法のような物語でした。
でも、第一次大戦中を描いた(時系列上の)最終巻とされてきた「リラ」を読んだときの、侵されたくない世界が変な風に侵されたような落胆に近い戸惑いが苦い記憶となってしこりを遺していました。 愛国心と自己犠牲の物語で幕引きだなんて・・ 身の置き場がなくて。
本篇がボーナストラックなどではなく、正統な最終巻であったことを慶賀。 各短篇は、ややトーンは暗いものの、奇跡や運命や天邪鬼的な心理の綾が采配を振るう構成力の巧みなロマンスが中心で(それでいながら、子供と老人を描かせたら女史の右に出る者はない)、諷刺の効いたユーモアなど、慣れ親しんだ風合いが感じられるのですが、短篇の合間に挟まれる詩篇とブライス家の団欒パートの異色さに殊更目を奪われます。 第一部でのアンとギルバートのイチャラブが(もぉー、貴方たちだから許す!)、ファンにはご褒美なだけに、第二部の衝撃が尋常でない。
ひょっとするとカタストロフ(の予兆)かもしれないと不吉なことを思ってしまった。 違うかもしれないが。 でもこのラストが胸に突き刺さり、強く惹かれずにはいられないのです。 怯えるほどなのに。
思い返せば・・ 完璧なる少年が、キューピッドの矢に射抜かれたように、たった一人、振り向かせることのできない光の子たる少女に恋をして、少女に相応しくあろうと誓い、自らを高め、時を耐え、試練を乗り越え、愛を勝ち得るその一方、ひとたび愛に目覚め愛を与えたかつての少女は、かつての少年の行く末に寄り添い、道を照らす永遠の女神となる・・という神話のように揺るぎのない一生もんのラブストーリーがゾクゾクするくらい好きだった・・のに。
アンは死んでしまうかも。 読み返せば読み返すほどその考えが頭を離れず怖くなった。 わたしの思い込みであって、当然いろんな解釈があるべきだと思います。 あーでも。 以下は妄想に過ぎません。
ウォルターの死を愛国心で贖おうとする思いは、アンにとって自己暗示に過ぎなかったのではないか。 まだ暗示から覚めやらぬ第一次大戦終結直後、束の間、癒えに向かう兆しさえ覗かせていた心が暗転したのは、戦地から遅れて届けられたウォルターの詩稿、「余波」に触れたせいではなかったろうか。 アンはその時、“偉大なる戦争”と決別したのでは・・ 独り、静かに。
以降のアンは、愛情に満ちた家族の中にあってさえ孤独です。 第二次大戦の軍靴の音が、一層深く彼女を絶望へと駆り立てていくという事情も窺われるように思われ、日増しにウォルターへと傾斜し、ついにラストの詩「余波1」と「余波2」で完全に2人はシンクロしてしまったかのよう。
悲しみを何かと結びつけることなく、ただ悲しみとして一心に見つめ、人間が生きるために備えた“忘れる力”を拒絶したアンと、“忘れる力”を味方につけ、春の到来を信じ、命ある日々を友とすることを疑わないギルバート。
アンに向けたギルバートの最後の台詞は、軽口であるはずはなく、戯れに見せかけた心からの問いかけだったとわたしは思いたくて、ただ、必ず支えてみせるという強い確信があったのか、不安と苦しみに苛まれていたのか、どちらだったのだろう。 どちらであっても悲しい。
≫ 僕は病気と苦痛と無知に挑戦するんだ・・・それはみんなつながり合っている一族なんだよ。僕はね、アン、この世界にある、誠実な、貴重な仕事に加わって自分もその一部分の使命を果たしたいんだ。
≫ あたしは人生の美しさを増したいと思うの。自分がこの世に生きているために、ほかの人たちが、いっそうたのしく、暮らせるというようにしたいの・・・どんなに小さな喜びでも幸福な思いでも、もしあたしが、なかったら味わえなかったろうというものを世の中へ贈りたいの。
<第2巻「アンの青春」より>
ギルバートとアンというのは・・ 実質的な繁栄と美しく生きるという哲学の、要するに文明と詩の幸福な結婚の象徴だったのかもしれないと、ふと思うのです。 どちらかに偏ったり、繋いだ手と手が離れてしまったら、まったき世界の魔法は破れ、呆気ないほど脆く崩れ去ってしまう。
変わりゆくもの、変えられないもの、変えなければならないもの、変えてはならないもの・・ 眼の前で進行していく歴史は最も鮮明であるはずなのに、その判断はあまりに危うい。 人々が選び取る未来への憂いが刻印されていたのではなかったろうか。
第1巻が児童文学の名作なら、この第11巻は純文学の名作だったとわたしには思えたのです。 第二次大戦最中に行われた重い意思表示であったと。


アンの想い出の日々 上
ルーシー モード モンゴメリ
新潮社 2012-10 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★★★
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中二階 / ニコルソン・ベイカー
[岸本佐知子 訳] 大学を出て会社に就職して2年になる“私”が、昼休みを終えて一階のロビーから中二階のオフィスへのエスカレーターを昇る束の間・・というのが小説のメイン舞台ってことになるんですかねぇ、一応。 その間の一寸の意識を、5年後の“私”が回想してるんですが、そこに5年後の“私”の現在進行形の意識も紛れていて、呼び覚まされていく想念の連鎖は脱線に次ぐ脱線を続け、エスカレーターのカットにどうやって戻るのか、いや、もう戻らないんじゃないのかと危ぶむことさえ忘れた頃にちゃんと戻るんだよねこれが。
本文の半分くらい(?)は脚注が占めていて、脚注も含めての小説なんです。 手にしているのは、切れた靴ひもの代わりに買った新しい靴ひもが入った(CVSファーマシーの)小さな白い紙袋と、ペンギンのペーパーバック(読みかけのマルクス=アウレリウスの「自省録」)。 目の前には中二階へと続くエスカレーター。 そこから派生していく意識が、本文を浸蝕するほどの脚注となって繁茂して、あれ? なんでこんな話になってんの? 何の話だったっけ? 自分は今どこにいるの? みたいなコンテクストの迷宮で遭難しそうな愉しさを満喫しました。
主人公の思弁小説という感じなんだけど、この彼の、些末な事物へ注がれる偏愛ぶりときたら! ヒトの行動、モノの仕組みや形状など、そこ? っていう細部や局所に異様にフォーカスされた観察と思考が炸裂していて、比喩表現や修辞のセンスに心擽られる文章も手伝って、ツボリどころは数知れず。 軽いパラノイア気質かってくらい偏執的かつ妄想的なんだけど、そんな自分を楽しんでいるドライさが心地よく、安心して付き合えるタイプの愛着の湧く主人公です。 特に彼の小市民的な性質は日本人なら身につまされる人多いかも。
自分に対しても他人に対しても、ドロドロとした人間臭い感情がおよそ欠落していて、人付き合いの希薄さ、干渉の乏しさが都会的で現代的な印象を残すのも事実。 でも、読者からどう見られようと、そこに悲観的な色合いはなく、常にポジティブシンキング。
人類共通ともいうべきあるあるネタにニマニマしながら、若干の時代のズレやお国柄の違い(80年代アメリカのエネルギッシュな消費社会)なのか、あるいは個性の違いなのか、時にはないない! とか、ほぉーとか、ポカン・・とか、そんなリアクションが雑じるのもまたよし。 めくるめく言及される企業や商品に対するイメージづけができなくて歯がゆいんですが、ネタが根本的にガセではないというのはわかりますし、そういう意味では身辺雑記風エッセイの要素もあるでしょう。 実際、これ読んでて、訳者の岸本さんのエッセイが頭を過ぎった^^ 岸本さんご自身も、この本から影響を受けたお一人なのかもしれない。 今も確実に継承され進化している“極小(ナノ)文学”の草分け的作品といえるのではなかろうか。
なんでもないオフィスの一風景が、彼のフィルターを通すと、空気を壊さないことで成り立っている奇妙な空間に変貌する感覚が凄く面白かったし、物質の表面に刻まれた溝やミシン目の美しさを讃えたり、シャツを裏返すテクニック、ストローやシャンプー史の講釈、ホチキス、便座、自動販売機、ペーパータオルのディスペンサー、紙ナプキン容器、耳栓、ポップコーン・・などなど、ミクロの目線で語り倒しています。 牛乳容器の変遷をめぐるセンチメンタリズムや、眠れない夜に数える羊の妄想がお気に入りです^^ あと、脳細胞は死んだほうがいいという四つの根拠はいただき! 我が身が嘆かわしくなったら、この論法を思い出して励まされようと思う。
記憶に留まることもなく消えてしまう日々の些細な想念や、地道で実用的でありながら余りにも小さ過ぎてニュースで報じられることもない文明の利器が、人生や社会の大きな進歩を深いところで支えているのだという信念。 万人の言われざる思いに形を与え、歴史に記録されることのめったにない日々の生活の手触りという無言の民間伝承を浮き上がらせて見せてくれたような・・
時代とは常に真理探究の“過渡期”なんだなぁーと、その流れの一部を担って生きてるんだなーと、ふと沁み沁み。 世の移ろいやすさを無常観に逃げて思考停止しないところが格好良かった。 あるいは、中二階という納まりの悪いフロアが、発展途上のメタファーだったのかな・・ 青々しさ、甘酸っぱさのようなものが微量に漂っていた感触もありました。


中二階
ニコルソン ベイカー
白水社 1997-10 (新書)
関連作品いろいろ
★★★★
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サム・ホーソーンの事件簿3 / エドワード・D・ホック
[木村二郎 訳] 日本仕様のシリーズ第三短篇集。 25篇目から36篇目までの12篇に、ノンシリーズ短篇「ナイルの猫」がボーナスとして訳出されています。 時代背景は大恐慌真っ只中の1930年代前半で、サム先生の年表的には開業して8年目から13年目、三十代半ばの壮年期です。 小さな片田舎だったノースモントの町が、未来への一歩を少しずつ刻んでいる足取りの確かさを感じますね。
ついに禁酒法が撤廃され、満を持して催された合法的なアルコール・パーティや、ノースモント初のトーキー映画館のオープニング・セレモニーや、ニューイングランド地方の古い家に残っているという窓のない避雷室や、葉煙草の栽培に必要な通気熟成所や、町にやって来た大サーカスや、灯台の海賊伝説などなど・・ 不可能犯罪の舞台もイベントも相変わらず楽しい。 謎解きそのものは、ややシャープさが影をひそめたかなぁ。 でも、そうそうクオリティを保持できるものではないと思うのだが十分に健闘しているレベルといっていいし、マンネリか愛着かと問われたら自分は迷わず愛着と答えたい・・そんな三巻目。 特にお気に入りは「ハンティング・ロッジの謎」、「墓地のピクニックの謎」辺り。 こういう出来過ぎチックなのがやっぱり好きなんだわ。 このラインナップにあって「ナイルの猫」の異色感もよかった。
レンズ保安官の“先生、あんたの助けが必要なんだ!”の求めに応じるまま、謎の解決に生活の重要な部分を捧げていたサム先生が、医師として、患者のために時間を割くという自戒を固く守って、一年以上探偵絶ちをすることになったり、開業以来、十三年に渡りサム先生を支えた有能な看護婦のエイプリルが診療所を辞めることになったり・・ 非常に淡泊な描き方ながら、プライベートの起伏があり、そこにさざ波立つ感情の機微が意外とアクチュアルだったりするんだよね。 旅先での急展開は唐突のようだったけど、十三年間の2人の関係が緩やかに辿った果ての最後の藁みたいで、ちょっと気持ちがしんとなったり。 サム先生は自分の残酷さに気づいてないかも・・たぶん。
こうしてずっと、サム・ホーソーン老医師の昔語りを聞いていると、実は聞き手に御神酒を勧めながら披露する酒飲み爺さんの与太話なんじゃないの? っていう若干の眉唾感というのか、不思議な酩酊感が湧いてくるのがまたよいんだよね^^;


サム・ホーソーンの事件簿3
エドワード D ホック
東京創元社 2004-09 (文庫)
関連作品いろいろ
★★
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サム・ホーソーンの事件簿2 / エドワード・D・ホック
[木村二郎 訳] 原書の刊行予定が待ち切れずとばかり、第2巻は日本独自の編纂で13話から24話までの12篇を本国に先駆けて刊行した恰好のようです。 エドガー賞を受賞した「長方形の部屋」(レオポルド警部もの)を併録。
あとがきでは、ご丁寧にも“サム・ホーソーン医師略歴”の更新、補足をしてくださっちゃって・・orz これはもう嫌がらせとしか思えないんだが・・仕方ないのかなぁ。 まだこの時点でも、先々の刊行予定の目途が立っていなかったようなので、ファンサービス的な意味合いも込めての情報提供だったのでしょうけども。 改版するときは是非とも配慮して頂きたいものです。 略歴読んでなかったら、サム先生とエイプリルって、もしかするともしかしゃうんじないの〜? 意外と意外に大穴なんじゃないの〜? って思ってたかもしれないのに^^;
ま、そうは言ってもメインは謎解きですから。 これがね。相変わらずの安定感でホントに楽しい。 探偵小説のサブジャンルとして“不可能犯罪”に特化したシリーズなので、衆人環視の殺人や人間消失や、人体密室(凄い!)あり、空中密室あり、目もあやな謎の提示が特徴的ですが、その回収としての結末に失望しないだけのクオリティが一様に保持されています。 オカルティックな伝道集会や幽霊屋敷や古い風車小屋、19世紀に流行したという八角形の家、密造酒に絡んだギャング抗争の一端や大都会ボストンの殺人鬼や曲芸飛行のパイロットやジプシーの呪い・・などなど、舞台やモチーフも雰囲気満点。
第2巻は、1927年の秋から1930年7月まで。 アメリカ社会史の出来事を踏まえつつ、ニューイングランドの片田舎の生活風景が物語の中に息づいていて、保守的な地盤の中にも、時代の移り変わる兆しが見え隠れしています。 大きな記念病院が開院し、黒人医師がやってきたり、フェミニズム思想を持つ女性やフラッパーな女性が生新な香りを振り撒いていたり。 雑貨店の一角の郵便業務が郵便局として独立したり・・
住民からは治療のために、レンズ保安官からは犯罪解決のために、サム先生が呼ばれる日々が平常風景^^ 読み進めていくうちに、縦糸と横糸の密度が増して、ノースモントという田舎町に自分がどんどん馴染んでいくのを感じます。 シリーズものを読む悦びです。
2巻目に来て、背景の人間模様にも若干ウェイトが加味されたかな? と思える向きもあり、郵便局のドタバタチックな光景を大恐慌の始まりに絡めて描いた「ピンクの郵便局の謎」などは、珍しくちょっとリリカルで、しかも殺人の起きないミステリという異色作だったのが印象的。 レンズ保安官との親交など、しつこくなくさり気ない味わいがあり、推理の箸休めとしての匙加減が申し分ない。
ミランダとのロマンスをはじめ、サム先生の周辺に妙齢の女性がチラついてきました。 でも結末知ってるからなぁ・・orz あと、特徴的な出来事としては、7年乗った愛車のピアース・アロー・ランアバウトとの悲しいお別れが。
筆頭容疑者になってしまったり、密室に閉じ込められたり、ギャングに誘拐されたり、サム先生危うし! な場面もありますが、我らがホーソーン医師はいつもスマートで理知的。 半ば慢心すれすれの、恐れ知らずの自信に満ちた若者の息吹きが、厭味にはならずにむしろ眩しいのは、サム老人が回顧しているからなんだろうな・・


サム・ホーソーンの事件簿2
エドワード・D・ホック
東京創元社 2002-05 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★
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サム・ホーソーンの事件簿1 / エドワード・D・ホック
[木村二郎 訳] 聞き手に御神酒を勧めながら、老医師サム・ホーソーンが、若き日の推理譚を披露していく昔語りスタイルの連作ミステリ短篇集。
ニューイングランドの田舎町、ノースモント(架空の町です)に診療所を構えた青年医師のサム・ホーソーン。 町で起こる不可解な殺人事件を次々と鮮やかに解決していくうちに、レンズ保安官からも一目置かれる存在になり、何時しか不可能犯罪の専門家(!)たる称号が。 シリーズ1巻目は、赴任直後の1922年3月から1927年9月までに起こった12の事件が収められています。
衆人環視の密室や人間消失など“不可能犯罪”のフルコースなだけあり、大胆奇抜な謎の提示に目を奪われますが、適度に離れわざを駆使しながらも、全体に手堅く、キレよく、大味な印象を全く受けません。 導入部の掴みと読後の満足度が釣り合った質の高いパフォーマンスを積み重ねる安定感が凄い。
有蓋橋、水車小屋、ロブスター小屋、野外音楽堂、乗務員車、十六号独房、古い田舎宿、農産物祭り・・と、タイトルを眺めるだけでも田舎風の魅惑的な舞台が並び立ち、わくわくしてしまうんですが、小さな共同体の閉鎖的で牧歌的な暮らし向きや時代風俗がそれとなく作品に味わいを添えているのが素敵。 ジプシーや奇術師やトーキー映画や・・ ちょうど禁酒法時代なのですが、密造酒が思いのほか庶民の日常に溶け込んでいるんだなーとかね。
アメリカにはニューイングランド文学の系譜がありますが、ミステリー界が生んだ本シリーズも、その枝葉の一部に加えたいですね。 “ホーソーン”というラスト・ネームにも、ニューイングランド文学史に燦然と輝くナサニエル・ホーソーンへの敬意が込められているようです。
サム先生の愛車は、両親が卒業祝いにプレゼントしてくれた黄色いピアース・アロー・ランアバウト。 景観に馴染まないその目立ちっぷりを最初は敬遠されてしまうんですが、余所者だった新米医師が“サム先生”として受け入れられていくと同時に、愛車もサム先生のシンボルのように愛されていく様子など、一篇ごと時系列に並んでいるので背景の物語性が緩やかに垣間見れたりします。 そう、あくまで垣間見れる程度に抑制されていて、謎の構築に神経をそそぐ職人気質っぽさが好き。
本書は、1996年刊行の本国版にノン・シリーズ「長い墜落」を併録した日本オリジナル版なのですが、本国版のハードカバー限定版だけの特典、ホック自身による“サム・ホーソーン医師略歴”まで添付されています。 これは正直、有難いのか迷惑なのか;; 背景のストーリー展開も楽しみたい派には不興なんじゃないかと思う・・orz もっとも、第1巻の時点では先々の刊行が約束されていたわけではなかったようで、その辺の事情あってのことかもしれませんね。 結局、1974年の第1作から亡くなられる2008年までに書き継がれた全72作が全6巻にまとめられたことは本当に喜ばしい。 物語世界は、1922年から1944年まで、アメリカ北東部の小さな町の古き良き時代の22年間を追っていくようです。 読む気満々です。 楽しみー♪


サム・ホーソーンの事件簿1
エドワード・D・ホック
東京創元社 2000-05 (文庫)
関連作品いろいろ
★★★
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